ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

要塞都市ヴェーゼル

先週の土曜に、下ライン地方の小都市Wesel (ヴェーゼル)に行ってきました。ヴェーゼルは、ライン川とリッペ川が合流する交通の要衝に作られた都市で、中世は、ケルンと低地地方を結ぶ中継地点として栄えたようです。近世初期までは、下ライン地方を代表する商業都市として、5000人以上の人口を抱えていました。

しかし、ヴェーゼルの運命が大きく変わるのが、17世紀です。ヴェーゼルは元々クレーフェ公領に属す領邦都市でしたが、1614年にブランデンブルク選帝候領に移りました。その後、ヴェーゼルは、17世紀の間に、スペイン軍、オランダ軍、フランス軍と、外国の軍勢に繰り返し占領されました。

そのため、再びヴェーゼルを取り戻した選帝候は、ヴェーゼルの要塞化を進めます。16世紀後半から18世紀にかけて、たいていの都市では、Zitadelle(星形をした要塞) やBastion(稜堡) などの巨大な防御施設で、街の防備を大幅に強化しました。しかし、ヴェーゼルの要塞化は、そのような通常の都市のそれとは全く次元の違うものでした。

ヴェーゼルは、市街地の何倍もの面積の防御施設で覆われ、住民の住む市域は、完全に防御施設に埋もれてしまいました。市街地は何重にもトゲトゲした稜堡に囲まれ、市街地とリッペ川の間には、巨大要塞が築かれました。この当時のヴェーゼルの地図を見ると、さながらハリネズミのように、無数の稜堡に覆われ、とても都市のようには見えません。おそらく、ヨーロッパでも屈指の堅固な要塞だったのではないかと思います。

このような巨大な要塞を築くには、当然の事ながら、莫大な費用が掛かり、ヴェーゼルの住民は高額の税金や賦役など、重い負担に悩まされたそうです。

しかし、一般に18世紀、19世紀になると、軍事的な意味が余りなくなってくることもあり、都市を覆う市壁や堀などの防御施設が次第に壊されていきます。そして、19世以降は、人口増大に伴って、都市の市域が、旧市壁を越えて急速に拡大していくのが常です。

また、産業革命によって、従来の小都市が、急速に大きくなる例も見られます。ヴェストファーレン地方では、Bielefeld などが典型ですが、下ライン地方では、Oberhausen などが、この時代に急速に大きくなったようです。

しかし、中世以来の下ライン地方の中心都市の一つだったヴェーゼルは、余りにも巨大な防御施設で囲まれていたために、市域を拡大することが困難であり、産業化の波に完全に乗り遅れてしまったそうです。稜堡や要塞を除去するために莫大な費用と時間、労力が掛かったし、結局、ヴェーゼルの要塞化は、近世以降のヴェーゼルの発展を阻害することになったようです。現在でもヴェーゼルは、地方の小都市にとどまっています。

ヴェーゼルの外れには、まだ当時の要塞の一部が残っており、そこが現在博物館になっています。博物館の前は、広大な広場になっているのですが、それは当然要塞の極一部に過ぎません。当時の要塞の、途方もない巨大さに唖然とさせられます。

中世都市が、その後どのような発展を遂げるかに関しては、近世において領邦君主とどのような関係にあるか、近代においては、産業化に成功するかどうかが、非常に大きな影響を持つと思います。残念ながらヴェーゼルは、このどちらの過程でも上手く行かず、順調に発展することができませんでした。

交通の要衝であったことが中世での商業都市としての成功を導いたにもかかわらず、それ故に近世で要塞化され、重い財政的負担と市域の拡大の阻害により、発展できなくなったわけで、運命の皮肉を感じます。