ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

一割の違い

今日も市立文書館。とりあえず1594年のÄgidii市区の教区税と人頭税に記載された人数を確認するために、名前などは抜かして記入する。機械的な作業が続き、ずっと続けてリズムに乗り、作業スピードが加速すると、ややランナーズハイになる。

お昼ご飯はいつものように、文書館のあるSpeicherstadt にあるBröker という食堂で食べる。ビュッフェ形式で、学食を思い起こさせるが、お味の方は段違い。値段も4.2ユーロと少し高いが、味はレストラン並みなので、余り高い気はしない。今日は、ブタのカツレツと茹でジャガイモとグリーンピース。大きなカップに入ったコーヒーを飲み、疲れた脳を奮い立たせる。

若干不明の部分もあるので確定ではないが、1594年のエギディ市区の教区税の台帳に出てくる人数は1129人、人頭税の台帳に出てくるのが1237人。その差は108人。約一割違う。人頭税に出てくるのは、聖職者や貴族とその奉公人、救貧院や病人以外の全ての成人(12歳以上)なので、通常の教区税の台帳に約一割を足した人数が、その市区の全成人人口になる。

この差が、他の時代や市区、都市にどの程度当てはまるかは不明だが、通常の租税記録に出てこない人々の人数を推測する一つの手掛かりにはなる。例えば、1539年のエギディ市区の教区税の記録には712人が記載されているので、実際には約770〜80人が住んでいたことが推測される。正確には知りようもないが、まあ当たらずとも遠からずと言うところではないか。ミュンスターではこれ以前の時代では検証不可能なので、他の都市の例を知りたいものである。

また、どのような人々が教区税の記録に出てこないのかをより精緻に知るために、今後両記録の違いを個人レベルで検証するつもり。また、いつになるかは分からないが、行く行くは、ある通りの住人の変遷を、より長期に渡り検討する予定。本当は全市、あるいは一市区全体を扱いたいが、作業量的に大変で時間が掛かりすぎるので、とりあえず通りレベルで長期の変動を扱ってみたい。

「ある通りに生きた人々」と題し、とりあえず16世紀篇は絶対書きたい。しかし、16世紀だけだと1539年から1600年までと余り世代を跨がないので、17世紀篇、18世紀篇ぐらいまでやりたい。しかし、租税記録をざっと見ている限り、当時の人も、かなり激しく移動していそうな気はする。

そのような妄想をしつつ*1、とりあえず作業は一区切り。

晩ご飯は、軽くパンを食べる。ドイツのパンはおいしい。最近は、カボチャの種がついたKürbisbrötchen がお気に入り。サクサクと香ばしい。

*1:やろうと思えばいつでもやれるが、これは私の本業ではないので後回しにせざるを得ません。しかし、これは、仕事なのでしょうか、趣味なのでしょうか。