ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

これからの歴史学の行く末は?

歴史学は、これからどうなっていくのでしょうかというのは、多かれ少なかれ皆考えていることではないかと思いますが、KBさんがそのようなことを書いていらっしゃったので、ちょっと乗ってみます。

私は,Slack先生にぶつけたのと同じ質問をしてみた.「今後の歴史学はどういう方向に進んでいくと思うか」.私はイギリスから来る研究者で方法に関する意識の高そうな人にはだいたいこういう質問をしているのだが,それは私自身がまったくその答えを見出せていないからである.(中略)
Slack先生は私の質問に対し,「わからない.見当もつかない」と仰っていた.(中略)しかしRobertは即座に断言した."Narrative."そして歴史家は文学理論にもっと学ぶべきだということ,言語論的転回から先に行かなければならないことを滔々と語ってくれた

Mt-KB.com 2006 04/18


ここで問題となっているのは方法論的な方向性のことだと思いますが、中長期的に言えば、やはり進化生物学ということになるのかなあとなんとなく感じています。いや、単なる勘ですが。

今後、人間を生物学的に捉える見方が否応なく社会に浸透するだろうと思うので、その流れから、歴史学もおそらくは逃れられないだろうとは思います。そもそも、現在でも、最も広い意味において、進化生物学は歴史学の一部ですので、いつになるかは分かりませんが、いずれ相互の接続を模索せざるを得なくなる時期が訪れるのではないかと思います。

とは言うものの、たとえ進化生物学的な考え方が、歴史学に入ってきたとしても、それは言語論的転回と同様に、専ら理論的な流行にとどまり、実際の歴史学者の日々の研究にはほとんど影響を及ぼさないような気はします。何故なら、進化生物学と歴史学の方法は全く異なっているので、方法の応用は難しいと思うからです。

ただ、歴史的な事件をより精密に捉えるために、自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、使えるものがあれば何でも使うという、先人達の雑食精神は、今後も受け継がれていき、色々な方法が歴史学に流れ込むのではないかと思います。

ただ、その方法の流入は、あくまで研究者個々人の興味関心、あるいは扱うテーマに依存しており、歴史学全体の基本的な方法となり、例えば大学での訓練の過程に組み入れられることはないのではないかと思います。

個人的には、方法論的な部分での、歴史学の行方については、全く心配していません。すでに、歴史学は、扱う時代、テーマによって非常に細分化されており、そこで必要とされる方法もまた、自ずから様々にならざるを得ないと思うからです。そして、研究を進めるために必要な方法は、個々の研究者が一生懸命考えるわけですから(そうじゃないと、論文が書けませんから)、歴史学の方法は、個別的により進んでいくことは間違いないと思います。

別に過去、社会史が流行したからと言って、みんなが社会史をやるようになったわけではないし、今後何か方法論的な流行りが生じたとしても、その方法論をみんなが取り入れるわけではないでしょう。そして、それは、歴史学の発展にとって、より好ましいのではないかと思います。

ある方法を使った方がその研究が上手く行くと思えば使えば良いし、必要がないと思えば、使わなければ良いだろうと思います。そして、別に誰に言われることもなく、個々の歴史学徒は、自然とそうするだろうと思います。

自分も研究をやっていてつくづく思いますが、研究を進めていく中で、史料の不足や、依拠する理論の欠如など諸々の理由によって、容易に解決できない問題が、常に目の前に立ちはだかります。これは、歴史学に携わる者なら誰でもそうだろうと思います。個人的には、そのような問題を解決しようと、あれこれ知恵を振り絞って、試行錯誤している日々の実践の中で、否応なく方法も発展していくのではないかと思います。

逆に言えば、そのような試行錯誤をやっていれば、気が付けば、歴史学は自ずと先に進んでいるのではないかと思います。「学」というのは、そのような持続的な発展を実現されるためのシステムであり、歴史学は十分その機能を備えた立派な「学」だと思いますので、個人的には、方法論的な行く末に関しては、余り心配する必要はないような気はしています。