ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

系譜学:様々な分岐を考える

私はその実験を、「生命テープのリプレイ」と呼ぶ。巻き戻しボタンを押し、実際に起こったすべてのことを完全に消去したことを確認したうえで、過去の好きな時代の好きな場所、そう、たとえばバージェス頁岩を堆積させた海に戻るのである。そしてテープをもう一度走らせ、そこで記録されることがすべて前回と同じかどうかを確かめるのだ。もし、生物が実際にたどった進化の経路がリプレイのたびにそっくりそのまま再現されるとしたら、実際に起こったことはほぼ起こるべくして起こったのだと結論しなければなるまい。しかし、リプレイ実験の結果はまちまちで、しかもどれもみな実際の生物の歴史とはまるでちがうとしたらどうだろう。(61頁)

 ある転轍点で軌道が切り替わったから、「こっち」へ来ているわけで、そのときに違う方向に切り替えていたら、「ここではない他の場所」に今ごろ私たちは立っていたかもしれません。(中略)歴史には無数の分岐があり、そこで違う道を選んでいれば、今は今とは違ったものになっていたこと、これは歴史について考えるときにとても大切なことです。それは歴史を「一本の線」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大なひろがり」として思い描くことです。そんなふうに無数の「存在しなかった現在」とのかかわりの中において、はじめて「今ここ」であることの意味も、「今ここ」であることのかけがえのなさや取り返しのつかなさもわかってくるのです。

 ですから、ある歴史的な出来事の意味を理解するためには、「なぜ、この出来事は起きたのか?」と問うだけでは足りません。「なぜ、この出来事は起きたのに、他の出来事は起きなかったのか?」という問いも同時に必要なのです。(39頁)

因果をどのように考えるかに付いて、必然と偶然という二つの軸がありますが、より現実に即してその中間的なものを捉えようとする場合、確率的な考え方を導入する必要があるのでしょう。

実際の歴史を見た場合、歴史学の論文では確固とした因果関係、つまり必然を強調することが求められるように思いますが*1、実際には、偶然によって引き起こされたこともまた多々あるだろうと思います。おそらく、個々の事例毎に、確率論的に評価することが、歴史的事象の因果性を考えるために必要なのだろうと思います。とは言うものの、歴史学の扱う対象で、厳密な意味で確率を求められるものは、ほとんどありませんが。

*1:歴史学の目的が、因果関係を明らかにすることで、偶然性を明らかにすることではないからです。そのため、論文で、「〜が起こったのは、偶然的要素が高かった」を結論には、なかなかしにくいです。これは、歴史記述にある種のバイアスを掛けることになりますが、一方で、因果性追及を促進することとなり、メリットとデメリットを天秤に掛けて、どちらに傾くかというと、やはりメリットに傾くのではないかと思いますが、私には何とも言えません。