ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

稲葉振一郎『経済学という教養』東洋経済新報社、2004年

経済学という教養

経済学という教養

この本は、「素人の、素人による、素人のための経済学入門」だそうです。稲葉先生は、社会学部の助教授と言うことで、経済学の専門家ではありませんが、専門家ではない人たちが、経済政策についてある程度の判断が下せるような教養を身につけることができるようにこの本を書いたそうです。

しかし、この本は、特に「人文系読書人」に向けて書かれています。彼らは、マルクス主義の影響を大きく受けており、経済学に批判的であるとされます。*1

しかし、実はマルクス主義経済学は、その経済観が古典派経済学者とそれほど異なっているわけではなく、不況の原因を市場の不完全性、不均衡に求めるのだそうです。そのため、彼らは往々にして、不況から脱出するための方法として、市場主義者と同じように、市場の不完全性を改善するという構造改革主義を取ってしまうそうです。

マルクス経済学は九分通り古典派経済学、スミス=ワルラス主義(つまり新古典派と同じ)とは言わないがスミス=リカードウ的思考の枠の中に収まっていて、ケインズの問題提起の意味を理解できなかった。(中略)基本的にそれは、経済の供給サイドにかかわる議論であって、セイ法則−市場経済においては供給はそれ自身の需要を生み出す−の枠を出るものではなかった。マルクス経済学は、不況を不均衡現象としてとらえてしまい、ケインズ的な不完全雇用均衡の概念に到達することはできなかったのだ。社会主義というオルタナティブも消滅し、マルクス経済学の伝統を汲む人々に残されていた道は、渋々ながらの市場主義への屈服か、あるいは保護主義・地域主義・ナショナリズムへの転回か、そのどちらかしか残されていないように見えたのだ。(222頁)


しかし、著者の考えによれば、不況の主な原因は、ケインズ経済学の「流動性選好」によるそうです。流動性選好とは、人々は、お金をそれ自体価値を持たない単なる交換の手段として欲しているのではなく、お金の何とでも交換できるという力そのものを欲するということだそうです。お金そのものを欲しがる人が増えれば、モノ・サービスに対し、お金の価値が上がる、つまりモノ・サービスの価値は下がります。「つまり、デフレとは、貨幣の購買力が上がること、インフレとはその反対に下がること (59頁)」だそうです。

欲しいものがない人とか、将来が不安だから貯金して、お金を使いたくない人が増えると、モノやサービスに対する需要不足が起きてデフレになります。この需要不足は、市場メカニズムの働きによっては改善できないので、誰もがほしがる新商品が開発され需要が高まるとか、人の意識が変わりお金を使いたがるようになるとか、「マクロ政策的にインフレに誘導していく」、つまり「具体的には、中央銀行が貨幣供給を増やして経済全体の貨幣総量を増やし、通貨の価値を下げる=物価を上げるようにし向ける(97頁)」ことなどが生じないと、不況からは脱出できないと言うことになるそうです。

マルクス主義経済学、あるいはそこから派生した経済観を持っていると、流動性選好の考え方に基づく不況脱出のための経済政策ではなく、実際には効果がない、あるいは逆効果な構造改革などの経済政策に賛成してしまうので、著者は、マルクス主義に影響され、経済学に対し反感を持っている人文系読書人に、きちんとした経済学に基づいた経済政策を支持するようにと促しているようです。

この本の面白いところは、この本の後半を、日本の左翼やマルクス主義経済学の批判に当てているところです。著者の支持するケインズ的な経済政策の説明は前半部分でだいたい終わってしまい、後半は、左翼批判が展開されていきます。個人的な印象では、後半の左翼やマルクス主義経済学批判の方により力が入っており、左翼的な人文系の読者を、ケインズ的な経済政策へと転向させることが、実はこの本の最大の目的だったように感じないことはなかったです。

しかし、この本は、経済学という専門分野へのリスペクト、すなわち教養の勧めをすることで終わります。

 しかし、どうすれば(経済学に限らず)そういう「教養」が身につくのだろうか?それはただ単に勉強して知識を詰め込めばいいということではないだろう。しつこいようだが、人間の能力には限りがある。すべてを知ることが「教養」ではない。そうではなく、それ以前の「生活態度」のレベルで重要なことがある。それは「専門知識」のありがたみを骨身にしみて知っておくこと、つまり自分の現場で自分なりの「専門知識」をきちんと身に付けておくことによって、他人の「専門知識」に対する尊敬の念を持てるようになること、だろう。
 もちろんこの場合、自分のことで手一杯になって、他に目をやる余裕がなくなってしまっては元も子もない。自分が無知であることを実感できる程度には勉強しておくこと。自分の畑がごく狭いところであること、世界がとても広いことを実感できるためには、周りを見渡すことと同時に、自分のその狭い畑が、それでもあんがい耕しがいはあると知る(だからよその畑も結構大変かつ面白いかもしれないと想像する)ことが必要だ。(289頁)

教養を求める心というのは、ある人々に、たまたま生じる欲求、あるいは義務感でしょうか。そのような人々は、センチネルなのでしょうか。どのくらいの割合の人が、教養を持つことが、社会の維持のために必要でしょうか。どうすれば、その数を確保できるでしょうか。この本とは直接関係ありませんが、教養の社会的必要性の度合いや教養を持とうという欲望は、どのように起動するかについて、私は良く分かりません。

私は経済学などほとんど囓ったこともない素人ですので、この本も、正直良く分からないところが多かったですし、不況への対策の是非も判断不能です。また、上のまとめにも余り自信はありません。間違いがあれば、指摘していただければ幸いです。


ちなみに、稲葉先生は、所謂「リフレ派」の中心人物の一人ですが、リフレ派の経済政策については、bewaad さんの「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」、それに対する反論は、馬車馬さんの「金融政策論議の不思議(1) 〜(19)」と「インフレターゲット(1)〜(4)」をご参照下さい。

*1:マルクスの経済学批判、つまり「『ブルジョワ経済学』によって『洗脳』された人々の振舞い、経済行動が、資本主義の仕組みを再生産する」(12頁)という考えを人文科学や自然科学にも適用し、カルチュラル・スタディーズを行ったり、自然科学を批判したりもするそうです。しかし、現在は、心理学、生物学の進展により、マルクス主義的な文化相対主義は、足下を掘り崩されているそうです。