ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ベネディクト16世の講義の日本語訳

色々な国で炎上を引き起こしてしまった、教皇ベネディクト16世の問題の講演が日本語訳されました。

講演を読むと、すでに色々なところで指摘されているように、信仰は、暴力によって強制するのではなく、理性に訴えかけることによって魂を動かすことのみが必要なのだという話の枕として、ビザンツ皇帝の話が引用されているというだけでした。全体としてみれば、些末な部分と言って良いでしょう。こんな物議を醸しそうな文句を引用して使ってしまった、危機管理意識の欠如が、ずいぶん大きな祭を引き起こしてしまったわけで、教皇という職務は大変なものだと思いました。

一方、この演説の内容自体も、なかなか面白いものです。教皇は、主意主義を退け、主知主義を採用しつつも、近代科学の神を排除した合理主義を退けています。この間日本宗教学会で聞いたパネルディスカッションにも関わるような内容なのですが、教皇のような、科学を歴史的なコンテクストに位置づけ、メタ的に捉えることができる、批判的知性を備えた宗教的知識人を、現代の自然科学や社会科学的な論理で包摂しようと言う試みは、どう考えても上手く行くはずがないよなあと思います。

 そのために、理性と信仰を新たなしかたで総合しなければなりません。人が自らに命じた、経験的に反証可能な領域への理性の限定を克服し、理性を広い空間に向けて再び開放しなければなりません。この意味で、神学は、たんなる歴史的・人文科学的学科としてではなく、本来の意味での神学として、すなわち、信仰の合理性への問いとして、大学に属し、諸科学の大きな対話に加わるのです。

 このようにして初めて、わたしたちは、わたしたちが緊急に必要としている、諸文化と諸宗教との真の意味での対話を行うことが可能になるのです。西洋世界では、実証的な理性と、実証的な理性に基づく哲学のみが普遍性をもつという考えが、ずっと支配してきました。しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。

 神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。同時に、わたしが示そうと試みたように、本質的にプラトン主義的な要素をもつ近代自然科学の理性は、自らの内に、自分自身とその方法論的可能性を超えたものをめざす問いを含みもっています。近代自然科学の理性は、物質の合理的構造を、また、わたしたちの精神と自然を支配する合理的な構造の対応を、単純に所与として受け入れなければなりません。その方法論はこうした所与に基づいているからです。

 しかしながら、なぜそうしなければならないのかという問いは、依然として残ります。そして、自然科学はこの問いを、他の思考領域と思考様式に――すなわち哲学と神学に委ねなければなりません。哲学にとって、また、違うしかたではありますが、神学にとって、人類の宗教的諸伝統の、とりわけキリスト教信仰の、偉大な経験と洞察に耳を傾けることが、認識の源泉となります。こうした源泉を拒絶するなら、わたしたちは、許しがたいしかたで、自分たちが耳を傾け、応答する態度を制約することになります。