ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

歴史を知らないと、遠回りする。

アラン・ケイ氏のインタビューを読みました。(成城トランスカレッジ!経由)面白い。

 (Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな、再発明されていることだ。

 だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。

 インターネットで今起きているのは、ダグ・エンゲルバートが'60年代にデモしてみせたものに似てきているということだ。Googleエンゲルバート(Engelbart)と打ち込むと、3つめのエントリーは彼が行なったデモのビデオだ。現在のコンピューティングカルチャーの中にいる者は誰でも Googleにアクセスして、90分のビデオを見てエンゲルバートが考えたことを学ぶことができる。しかしそうする者はいない。

 私はGoogleの社員に、「エンゲルバートを知っているか」と聞いたことがある。「ええ。マウスを発明した人でしょ」。「彼がしたことは?」「さあ。なんでそんなことを知りたがるんです?」

 彼らは何でも見つけることができる会社にいるのに、学ぶ気がまるでなかった。エンゲルバートと打ち込めば最初のエントリーで彼が書いた75の論文を手に入れられる。3つめでデモが見られる。なのに、コンピュータ分野の最重要人物の一人だった人物に関して、彼らはなぜそんなに知りたがらないのか。この関心の無さはポップカルチャーの関心の無さだ。言い換えると彼らは過去のことすべてに関心が持てないのだ。

(中略)

しかも彼らはコンピュータ分野の専門家だ。もし物理学の専門家が、マクスウェルやアインシュタインの業績を知らなければ、学会追放ものだ。しかしコンピューティングではエンゲルバートの業績を知らなくても関係ない。なぜならこれがポップカルチャーだからだ。パンクロッカーがバッハの功績を知らないようなものだ。ポップカルチャーはバッハにまるで興味を持たない。ポップカルチャーではアイデンティティと参加こそが重要だから。

要するに、自分が興味がある対象を扱った研究が、過去にあったのかどうかをきちんと調べておかないと、他の人が考えたことを、もう一度自分が一から考えなければならないので、余計な時間や労力がかかるし、遠回りになってしまうということです。

ケイ:Squeakがなぜ必要かはこういう面から見るといい。先進国で、科学者とまともな会話ができる成人、言い換えると科学的リテラシーを持つ成人は5%未満だ。科学的リテラシーとは、科学の本を読んで、その考えをほぼ理解でき、科学者とそれについての発展的会話もできる能力だ。95%の大人は科学的リテラシーを持っていないのだ。

 私が言う科学とは単なる原子の学問でなくもっと広い概念だ。科学の学習とは、原子理論を学ぶことでなく、科学者のような考え方を学ぶことだ。原子理論を学んでも科学者のような考え方をまるで気にしないということもありうる。科学を宗教のように(決まりきったこととして)教えられることもある。

 では科学者のように考えるとはどういうことか。これは、何に関しても注意深く考える人とはどういう人かということだ。科学者の中にも、物理に関しては科学者らしく考えられても、政治や宗教になると科学者らしく考えない人もいる。

自分の専門では歴史学的な思考や社会科学的な思考をできるが、専門外では、そのような考え方が全くできなくなり、普通の人と同じになってしまうということは、良くあることだと思います。あらゆる場面において、科学的な思考を一貫させるというのは、常人にはなかなか難しそうです。