ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

山中弘「宗教社会学の歴史観」

今日はダルくてやる気がでなかったので、研究と関係ないものでも読んで楽しむかと思い、山中弘「宗教社会学歴史観」(『岩波講座宗教3 宗教史の可能性』岩波書店、2004年、107-129頁)を読みました。

この論文では、イギリス(?)の研究者による「世俗化論」の批判的検討が行われています。先ず、世俗化論は、ウェーバーから「合理化」「脱呪術化」という概念を、デュルケームからは社会的統合の機能を担う宗教という見解を受け継いでいるそうです。また、近代化による大きな社会変動によって、前近代と近代社会を明確に分けるという歴史観も受け継いでいるそうです。

世俗化論の代表的な論者ブルースによれば、世俗化は近代化によって生じる三つの要因によって引き起こされるそうです。

1. 社会的分化:制度や機能の分化、特殊化
2.ソシエタリゼーション:伝統的共同体の解体により人々が国家などのより大きな単位に再組織化される
3.合理化:人々が世界を経験的、合理的に解釈するようになる

また、彼は、世俗化の過程に、五つの地方的固有性を付け加えたそうです。また、世俗化を妨げる要素として、1.文化的防御:近代化の過程で、宗教が地域や文化の独自性を守るための抵抗のシンボルになること、2.文化的過渡性:移民などが別の文化伝統に移行した際、宗教を中心として既存の伝統文化を保持する共同体を作ること、が挙げられるそうです。

それに対し、ブラウンは『キリスト教国イギリスの死』で、19世紀半ば以降20世紀初頭までは、ウェールズスコットランドアメリカで、都市化の進展が宗教を拡大させていたことを指摘するなど、宗教は、衰退しただけではなかったと批判したそうです。

また、かつて世俗化論の代表的論者であったバーガーは、その後世俗化論を誤りだと考え、批判するようになったそうです。彼は、「世俗化は多くの人々が耐えることが難しい不確実性を生み出しており、近年の宗教復興は近代化によって掘り崩された確実性certainity を回復するものだ」と考えたそうです。つまり、彼は、世俗化が、「有意味で究極的な期待にあふれたコスモスに生きたいという欲求を挫折させる」、つまり近代化がアノミーをもたらし、そのアノミーから身を守り、確固としたものを取り戻すために、宗教の復興という揺り戻しが起こると考えたようです。

著者によれば、正統派世俗化論者には、彼らが多くを受け継いだウェーバーデュルケーム、あるいは世俗化論から離れたバーガーとは異なり、近代化、世俗化の進展を、「人間が超自然的なものから脱して、理性的、合理的に世界を解釈するようになるという楽観的な見通し」を持っていたので、近代化に伴う「意味の問題」が主題化されず、実証的に世俗化の過程が記述されるだけなのだそうです。

著者自身は、世俗化論の依って立っていた歴史観は、すでに賞味期限を過ぎているので、グローバル社会における宗教変動の分析視角の構築のためには、この「大きな物語」を相対化し、狭い意味での分析枠組みから解放することが不可欠なのだそうです。


内容的には、世俗化論の紹介と、その限界を考察するという感じですが、私が疑問に思ったのは、宗教社会学において世俗化論がどの程度広まったのかについてです。この論文で出てきた世俗化論者は、英米の研究者しかいなかったので、非英語圏、たとえば大陸では、余り広まらなかったのだろうかと思いました。また、ウェーバーデュルケームは大陸の人で、彼らの近代化に対する批判的な視座は、大陸の宗教社会学には受け継がれなかったのだろうかとも疑問に思いました。私は、世俗化論が出てきて、受容された歴史的コンテキストをしりませんし、世俗化論以外の宗教社会学的な理論を知らないので、どのようなコンテクストの中でこの論文が書かれたのが、残念ながら良く理解できませんでした。