ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

歴研:山本大丙「17世紀オランダのメノー派信徒−商業、神秘主義、聖書中心主義−」

この日に、歴史学研究会ヨーロッパ中世史・近世史合同部会発表があったので、行って参りました。

この日は、山本大丙氏による、「17世紀オランダのメノー派信徒−商業、神秘主義、聖書中心主義−」という発表が行われました。この発表では、本来世俗的なことがらを否定していたメノー派が、商業などの世俗的なことがらに積極的に関わっていったことに着目し、16世紀から17世紀までの、メノー派の内部分裂や商業、平和主義、神秘主義に対する態度の変遷について述べられました。

必ずしも、一つのテーマを論証するという発表ではありませんでしたが、概説的な説明も丁寧に織り込んでいたので、ミュンスター以降の再洗礼派の動きについては、良く知らなかった私には、非常に勉強になりました。以下は、質疑応答含めて、興味深いと感じたことの私的なメモです。中には、自分の勝手な理解も入っていると思うので、誤りがあれば、指摘していただければ幸いです。

  • メンノー派研究における、オランダとアメリカの違い。共和国の伝統との関わりを重視するオランダの研究者と、護教的なアメリカ研究者の対立は80年代まで続いた。アメリカ研究者は、共和国時代のメンノー派を、堕落していると見なす。
  • オランダのメノー派は、主にホラント、ゼーラント、フリースラントなどの沿岸部中心。この地方では、農村でも、商業に携わる人が大部分だった。メノー派は、陸路よりも、船を使って、商業路を移動し布教した。そのため、商業が盛んではなく、船の往来ができない内陸部では、メノー派は少なかった。
  • オランダでは、カトリック支配期にはメンノー派は、非常に厳しく弾圧され、数多くの殉教者を出したが、独立戦争以降は、非常に寛大に扱われ、ほとんど活動に制限はなかった。オランダでは、少数派の改革派が支配的な地位にあったが、レヘント層(都市為政者層)は、改革派が他の宗派を弾圧しないように、監視していた。ルター派、メノー派、ユダヤ人は、寛容に扱われたが、政治的な理由で、カトリックに対する監視は、より厳しかった。
  • ただし、オランダでは、異宗派間の結婚が普通に行われており、カトリックとの結婚も普通に行われていたので、人々は、余り宗派を意識していなかったらしい。また、改宗もかなり行われたようである。
  • カトリック支配がなされていた1555年に、メノー派が分裂し、ワーテルラント派が生まれ、自分たちのことを「洗礼に親しむ者達」(doopsgezinden) 呼ぶようになると、wederdoper のような蔑称は使われなくなり、専らdoopsgezinden が使われるようになる。つまり、すでに、弾圧されていた初期の段階から、メノー派に対する他宗派からの蔑視は、ほとんどなかったと思われる。
  • 1555-57:夫婦間の破門者の忌避が問題となりメノー派から、ワーテルラント派が離脱。1566年、さらにメノー派が、フリースラント派とフラマン派に分裂。17世紀初頭の最大勢力は、ワーテルラント派。
  • 教団は、長老制を取り、メノー派の説教師や長老は、他に本職を持つ。運営や説教師のためのグループがCollegie。Collegie は、洗礼や聖餐式を行う長老、説教を行う説教し、事務を行う助祭、執事がいたが、彼らの役割ははっきりと分化していたわけではない。
  • 無教会派コレギアント派。シュヴァンクフェルトやホフマンからも影響を受けた、絶対的教義の確立を避け、どうせ不完全な結論にしか達しないのだから、話し合って、妥当な結論を得られればよいと考えていた宗派。メノー派の多くが参加。ただし、コレギアント派の中には、他の宗派に属しつつ、コレギアント派の集会にも参加するということが行われた。
  • メノー派商人は、平和主義のために、蛮行が行われていた東インド貿易には携わらず、武装船を使わず、平和な海であるバルト海で商業に携わる傾向があったが、中には例外もおり、平和主義を全ての商人が貫徹していたわけではなかった。
  • メノー派に商人が多かったのは、初期には、商人の改宗者が多かったから。オランダでは商業に携わる者が多かったので、必ずしもメノー派が特殊だったわけではない。後に、メノー派商人が、バルト海で強固な商業的ネットワークを作るようになると、商業的利益のためにメノー派になる者も多かった。
  • メノー・シモンズには神秘主義がほとんどなかったが、教団内での階層格差が広がるようになると、信徒の中で、財産共有制や神秘主義に傾倒する者が増えていった。第二世代のワーテルラント派指導者であるハンス・ド・リースは、反三位一体主義で合理主義的傾向を持つソッツィーニ派や、人文主義的神秘思想家コールンヘルトの影響を受け、神秘主義に傾倒する。
  • 第三世代の指導者ニーテルト・オベスゾーンは、聖書中心主義で、神秘主義を否定。リースと対立。財産共有制を要求する信徒を、労働倫理がないと批判。
  • 1620年代には、神秘主義的なリース派と、聖書中心主義的なニーテルト派が対立するが、リース派が優位に立ち、ニーテルトは説教師を解任された。しかし、その後、財産共有制の要求は消える。
  • 第四世代の指導者ヤコブ・ピテルスゾーン・ド・コーフは、労働を重視し、利益追求を推奨。他方、メノー達には見られなかった、華美なもの、娯楽、笑うことさえ禁止しようとする、極度の禁欲主義が現れる。
  • 17世紀中期以降Collegie は、商人層の一部の名家による寡頭支配が行われるようになる。
  • 特にワーテルラント派は、破門や忌避をほとんど行わなくなった。

今回非常に興味深いと思ったのが、オランダ共和国では、宗派化がほとんど行われず、宗派が社会的にそれほど大きな意味を持っていなかったらしいことです。近世ドイツでは、主に領邦を単位として、カトリックルター派、改革派教会が成立し、世俗諸侯が自領内を原則一つの宗派で支配し、臣民にその宗派を強制し、異宗派間の婚姻もたいてい禁じられていたので、オランダとは全く状況が違ったと言えます。

オランダ共和国における宗教的寛容は、低地地方の人々のメンタリティーによるところも大きいのでしょうが、一方で、カトリック時代の新教弾圧に対する州指導層の反発、反カトリックで諸州が一致して戦争をした経験、(多分)共和国内の全ての州で*1、改革派が指導的地位につき、指導層のレベルでは、宗派の分裂が行われなかったことも大きな要因ではないかと、個人的に思いました。

同じ共和制を取っていても、スイスでは、宗派化が進みましたが、これは、神聖ローマ帝国同様、盟約社団内部に、カトリックのカントンと、福音派のカントンが併存し、互いに影響力争いをしなければならなかったという、対外的な理由があったからという要素もあったからではないでしょうか。他方、神聖ローマ帝国やスイスでは、領邦君主なり都市政府が、教会の領域を含め、自らの支配権を確立しようとしていきますが、オランダにおいて、Normatieve Zentrierung、あるいは政治権力の単純化はどのように進んだ、あるいは進まなかったのか、その際に、州が単位となったのか、それとも行政機関としての役割も果たしていたという全国議会がある程度の役割を果たしたのか、それとも大半の州総督を兼ねていたオランイェ家がある程度の役割を果たしたのか、大変気になるところです。

また、共和国内でも、カトリックは他の新教系の宗派とは、また違った扱いを受けたようですが、たとえば、他国と境界を接する南部、あるいは東部でも、北部沿岸部と同様の宗教的寛容が存在したのかどうかについても、気になるところです。たとえば、オランダと接しているミュンスター司教領側では、改革派の影響を排除するために、カトリック化政策が取られたようですが、オランダ側ではどうなっていたのでしょうか。

オランダにおける宗教的寛容を考える際には、宗派化が進んだ神聖ローマ帝国やスイスなど他の諸国と比較することも、大変有益ではないかと思いました。

*1:宗派決定は、オランダでも州単位で決定されることになっていたようですが、全ての州が改革派を選択したのでしょうか?