ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

あなたは、信仰ではなく、財産を求めている。

今読んでる史料は、カトリックの学校教師が書いたと見なされている詩です。内容は、ほとんど延々と罵詈雑言が続いているという感じで、本当に酷いです。福音派と再洗礼派は、異端だとか涜神者だとか、反乱者だとか、盗人だとか、裏切り者だとか、延々と罵倒され続けています。こんな史料なので、内容の信憑性は非常に低く、史料批判に細心の注意を払わないと使えない、使用難易度の高いものになっています。

この詩では、福音派と再洗礼派は、貧乏だったり、借金持ちで、敬虔な人々(つまりカトリック信者)や聖職者の財産を狙っている、貪欲な連中として描かれています。実は、このような見方は、やはりカトリックの校長先生だったケルゼンブロッホの書いた年代記や、当時の諸侯などと共通しています。長い間ミュンスター再洗礼派運動が、貧民の反乱だと思われてきたのは、このような人々の脳内妄想に基づく罵詈雑言を歴史家が鵜呑みにしてきたからなのでした。

つまり、再洗礼派の批判者達は、再洗礼派達が、信仰のためではなく、物欲や金銭欲のために行動していたと非難していたのですが、このような非難の仕方は、敵対する相手を批判する際の常套句として、現在でも現役で使われていると言えるでしょう。信仰という崇高な目的ではなく、物欲という不純な目的で行動する者は、宗教的ではないという非難は、非常に使い勝手がよい、普遍的な非難の仕方なのだろうと思います。

ミュンスターの再洗礼派は、何分財産共有制を導入して、貨幣を廃止したぐらいですから、お金に関しては、相当に無頓着だったと言えます。それでも、あいつらは他の人の財産を略奪した、金目当ての、貪欲な連中だと非難されてしまうわけなので、実際に再洗礼派が何を目的に行動していたかということは、非難する側にとってはどうでも良いということになります。これと同様なことは、現在でも、いたるところで見られることだろうと思います。