ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

石部雅亮、笹倉秀夫『法の歴史と思想』

法の歴史と思想―法文化の根柢にあるもの (放送大学教材)

法の歴史と思想―法文化の根柢にあるもの (放送大学教材)

かれら(ドイツ民法典の学問的基盤を築いた近代市民法学者)が私法学者として自由・平等・私的所有権・契約の自由(私的自治)を出発点とし、それに反する旧い制度を批判する立場にあったことである。このような立場は近世自然法論以来のものであり、とりわけカントが各人の自由な意志(人格の自律)を重視したことに結びついている。(中略)概してかれらは、ドイツが国家として統一し強くなることを希求する国家主義者でもあったのである。

(中略)

一般に当時の私法学者は、(1) 個人の私権をも侵す「封建制」や「絶対主義」に対し自由の立場から反対するとともに、(2) この自由が暴走しむきだしのエゴイズムになることを、強制に頼らないで各自が自発的に防止できる制度的保証が必要であるとした。そしてこの(1)と(2)の二課題を同時に達成できるのは、中間団体・団体的自治を育成する道によってであるとした。団体的自治とは、家族・職業団体・都市・地方自治体・宗教団体・大学・身分制議会などの諸団体に自治権を与え、それを基盤にして社会を多元的に構成することである。この自治に参加することによって、各人は政治的に訓練されるとともに、自分のエゴイズムを集団的な相互批判を通じて脱却する。総じて自治はこのような形で、ひとびとを公共心をもった自由な主体にするとされた。(中略)こうした思想は、ヘーゲルトックヴィル、ミル、ギールケなど著名な思想家にみられたが、ドイツの近代市民法学者達もまたそれを共有していたのである。

(中略)

一八七四・七五年以降になると、資本主義の高度化の結果、ドイツをも恐慌が襲い階級矛盾が深刻化し、それまで団体自治を支えてきた中間身分がこの社会の変化の中で衰退する。こうした背景の中で私法学者達は、しだいに私的自治の矛盾を団体的自治によって、すなわち国家権力によらずに、調整することに自信を失い、強い国家に頼って危機を乗り切ろうとするようになる。

(128-130頁)

国家−中間団体−個人という区分は、現在でも良く使われているように思います。中世から近世、近世から近代へと時代が進むに連れて、ヨーロッパの社会は、概ね複雑から、単純へと進んでいきます。この社会の単純化は、社会運営の効率化を大いに促したように思えます。特に、法に関しては、それが最も良く当てはまるだろうと思います。

上記の三区分法で考えれば、中間団体の衰退は、必然的に国家への権限の集中、あるいは個人への権限集中を導くようにも思えます。現在は、19世紀末よりも、遙かに中間団体の力が弱まっていると思いますが、国家、あるいは個人、あるいは個人を媒介する市場への権限集中は、ますます進んでいるでしょうか。


また、アナルコ・キャピタリズム研究(仮)というサイトで、次のような引用を見つけました。

"... Before labelling a society in which different people are under different laws chaotic and unjust, remember that in our society the law under which you are judged depends on the country, state, and even city in which you happen to be. Under the arrangements I am describing, it depends instead on your protective agency and the agency of the person you accuse of a crime or who accuses you of a crime. ..."

訳: 人々が異なる法律のもとで暮らすような社会などカオスで不公正だ、と決めつける前にぜひ思い出してもらいたいことがある。われわれの社会では人々を裁くための法律は国・州・都市によって異なるのだ。わたしの描写した世界ではそれが保護会社に変わるだけだ。つまり法廷で争う人たちがそれぞれどの保護会社に加入しているかによって従うだろう法律が異なる。

POLICE, COURTS, AND LAWS---ON THE MARKET

このような社会は、我々中近世西欧史をやっている人間には、大変なじみ深いものです。つまり、中近世の社会は、ここで言われるような、人々が異なる法律のもとで暮らしていた社会でした。他方、中近世社会では、現在のような資本主義や市場はありませんでした。市場という媒介を経ることで、ややこしいことこの上なかった中近世的な社会は、最上の効率を手に入れることができるでしょうか。ちなみに異なる法律のもとで人々が生きる社会では、多くの特権を持つ者とそうでない者が生じるので、必然的に身分制社会になるでしょう。

リバタリアニズムは、何となくアメリカの人たちが好きそうな印象がありますが、反国家主義地方分権主義、市民の武装権、キリスト教原理主義などを考えて見ても、アメリカには、やたらと前近代社会的な要素が好きな人たちが多いような気がするのですが、これは私の気のせいでしょうか。はたまた、建国以来の伝統の残滓なのでしょうか。