ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

フランクフルト都市内騒乱における発展類型

都市内騒乱の一つの発展類型、とりわけフランクフルトで、すなわち農民戦争地域の周辺部で展開された類型は、あらためて農民運動と市民運動との間接的ではあるが密接な関係を裏づける。すなわち、市民が農民戦争を知った場合、都市内の「社会運動」は三つの段階を辿るのである。都市内の「社会運動」の第一段階(抗議の段階)では、その担い手は、「貧民、日雇い人、農業で生活する人、職人、下僕、さらにまたツンフトに組織されていない手工業者」である。第二段階は(抗議の明確な表明の段階)では、社会的基盤がツンフト手工業者を加えて拡大する。第三段階では、ツンフト手工業者−−より広い市民層の支持を得て−−、市の統治を引き受けるという形で、表明された抗議を制度的に実現することに着手する。フランクフルトでは、市民が自ら「皇帝であり、教皇であり、司教であり、市参事会であり、市長である」という主張が行われた。

ペーター・ブリックレ著、前間良爾、田中真造訳『1525年の革命 ドイツ農民戦争の社会構造史的研究』刀水書房、1988年、162-163頁

なお、Rammstedt, Otthein, Stadtunruhen 1525, in: Wehler, Hans-Urlich, (Hg.), Der Deutsche Bauernkrieg 1524-1526, Göttingen 1975, S. 244, 252f. とBräuer, Helmut, Gesellen im sächsischen Zunfthandwerk des 15. und 16. Jahrhunderts, Weimar 1989, S. 173. も参照のこと。

私は1525年の都市反乱の一般的な動きについては、最新の研究まで抑えているわけではないので、何とも言えませんが、基本的には、上述のように下層民が、主に経済的な不満のせいで、最初に騒擾を引き起こしていたようです。基本的に、ラムシュテットの上記のテーゼとハインツ・シリンクの都市騒乱の発展段階に関するテーゼは似ているように思えます。

このテーゼを考えるときに、次の点について考慮しなければならないと思います。それは、北ドイツと南ドイツの違いです。この両者の違いは、端的に言えば、1525年の段階において宗教改革が導入、あるいはその信仰が広く知られていたか、そして農民戦争の舞台となったかどうかです。北ドイツの諸都市では、この時点では、宗教改革は極一部の聖職者や市民を除き、ほとんど知られていませんでした。また、北ドイツでは農民戦争が起こりませんでした。そのため、北ドイツの諸都市の都市騒乱は、農民戦争から直接影響を受けたのではなく、フランクフルトなどの他の都市の影響を受けていました。

そのため、ヴェストファーレンの諸都市では、1525年の騒乱は、宗教改革の影響をほとんど受けていない、社会経済的不満と反教権主義によって引き起こされた社会運動でした。しかし、1530年代に入ると、ヴェストファーレンの諸都市にも、宗教改革の波が遅ればせながら押し寄せてきます。そのため、30年代の都市騒乱は、宗教的な性格を帯び、社会経済的な要求は、後ろに退くようになります。しかし、20年代と30年代で、下層民が直面していた社会経済的な問題は、それほど変わりがないだろうと思います。ではその時、20年代の騒乱と、30年代の宗教改革運動における都市住民の要求の大きな違いを、どのように考えれば良いのでしょうか。また、20年代の騒乱と、30年代の宗教改革運動で、運動の進展の過程は、同じだったと考えられるでしょうか。この問題を考える際に、南の諸都市の騒乱の例を、参考にすることも、できようかと思います。