殉教者とセンチネル
自らの信仰を貫いて死んだ殉教者、国のために戦い死んだ兵士、歴史を守るために命を顧みなかったオハラの学者たち*1 など、理念や他人のために身を投じるという自己犠牲を、我々が崇高だと感じ、それを行う者の姿に感動を覚えるのは何故でしょうか。
人間が社会を維持する際には、個人として考えれば非合理的な行動を取る者が必ず必要になります。上述の自己犠牲者や、内田先生が言うところの「センチネル」あるいは「文化的雪かき」を行う者が、そのような人々にあたるでしょう。
「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからないからである。
崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶんほとんどの子どもは「ありがとう」さえ言わないだろう。
感謝もされず、対価も支払われない。
でも、そういう「センチネル」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。
「キャッチャー」は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。
ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
自己犠牲者やセンチネルは、社会にとって必要ですが、その役割を引き受ける者が、何故それを引き受けようと思うのかというメカニズムに関しては、私はまだ良く分からないままでいます。
実は、私がミュンスター再洗礼派の研究で明らかにしたいと思っていることは、まさに信仰に殉ずる自己犠牲者の心理的な過程、何故彼らがそれほどまでに信仰によって行動を規定されるような状態に到ったのかという問題です。そのため、私が扱いたいのは基本的には自己犠牲的な行動を取る個人の心理、つまりミクロ、あるいはピコレベル*2の問題です。しかし、そのような行動や心理的過程は、文化に規定され集団行動の中で生じるので、メゾレベルやマクロレベルの問題でもあります。そしてこの問題の先には、何故人間は信仰や理念、観念、伝統、文化、集団の利益を内面化しなければならないのかという非常に大きな問題が待ちかまえています。
ただ、個人の内面というのは、史料からはほとんど分からないので、残念ながら歴史学の方法論では、探求は早晩行き詰まることは確実です。なかなか専門以外の本に目を通すのは大変ですが、いつまでも素朴心理学に基づいてものを考えるのもマズイので、もっと別の道具が必要だと、色々と探している次第です。