ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

では、どうしたら良いのか?

羽田先生も、下田先生も、現在の実証水準は上がっているが、極度に細分化され、全体の見通しが立たない状況に対し危惧や疑問を抱いているように思います。

では、何故このような細分化や視野狭窄が生じるのでしょうか?その理由は、主に教育と制度によるのではないかと思います。

学生が何故小さな専門領域を選び、論文を書くのかと言えば、そうするように大学教員によって指導されているからに他なりません。下田先生が挙げている論文の書き方は、非常にオーソドックスな学術論文の書き方で、だいたいどこの大学でも論文指導で身につけるべく訓練させられることだろうと思います。

「自由な研究」をやりたいと思い、上のような書き方を踏襲しない場合、当然論文指導で駄目出しを喰らい、矯正させられることになるでしょう。つまり、大学で、上のような論文を書くように指導されているために、学生は、そのような技術を身につけ、そのように書くことが正しい論文なのだと価値感を内面化していくわけです。つまり、学術雑誌に、それまでの研究史を踏まえ、一次史料を沢山使った実証性の高い個別論文ばかりが掲載されているのは、大学での教育の成果だと言えるでしょう。

逆に言えば、グローバルな世界史や「自由な研究」を学生がやろうとしないのは、そもそもそのような研究をやるべきだという教育が行われていないからだろうと思います。そのため、世界史や「自由な研究」をやる研究者を増やしたいと思えば、そのような研究こそが歴史学研究だという教育を学生に施せばよいだろうと思います。

では、教育によって、世界史や「自由な研究」をやろうという学生が増えたとしたら、歴史学界は変わっていくのでしょうか?もちろん、そんなことはありえません。

上で下田先生が指摘したような論文ばかりが、歴史雑誌に掲載されているのは、単に研究者がそのような論文ばかりを投稿するからだけではなく、そのような論文しか掲載されないからでもあります。当該テーマの研究史をふまえていなかったり、十分な一次史料を使っていなかったりする論文は、査読でリジェクトされるはずですから、そもそも下田先生が上で挙げたような特徴を欠いた論文は、雑誌には掲載されないはずです。

巨視的な世界史や、歴史学の定式から外れた「自由な研究」で論文を書いたとしても、おそらく査読雑誌に掲載される論文としての条件を満たしていないということで、大半はリジェクトされるのではないかと思います。あるいは査読誌に掲載されるにせよ、オーソドックスなテーマや手法で論文を執筆する場合と比べ、論文一本に必要な時間や労力が余計に掛かるのではないかと思います。そのため、この就職難のご時世に、あえて危険を顧みず、挑戦的な論文を書こうという若手研究者はなかなか現れず、ほとんどの人は、業績が上げやすいオーソドックスな論文を書こうと思うのではないでしょうか。

また、論文を書いても査読に通らない確率が高い、あるいは査読を通すために必要な時間や労力が大きい場合、そのような論文を書こうとする研究者は、オーソドックスな手法で論文を書き、着実に査読誌に載せていく研究者と比べて、業績を積むことが難しいだろうと思います。現在のように、大学教員のポストが極度に足りない状況では、そのような研究者のほとんどはポストを得ることができないでしょう。つまり、雑誌の査読の基準が変わらない限り、たとえ学生の意識が変わり、世界史や「自由な研究」をやろうという若手研究者が増えたとしても、彼らの大半は研究者として生き残ることが出来ず、歴史学界の状況は変わらないだろうと思います。

このように、歴史学界を変えるには、教育面と制度面での変化が必要だろうと思いますが、これが可能なのは、学内行政や教育、さらに学会運営や査読に携わる先生方だけです。先生方は、既に定職を得ており、挑戦的な試みを行ったとしても、失業したり、ホームレスになったりする危険性は少ないわけですから、ぜひ今後の歴史学界の発展のために、大いに挑戦していただきたいと思っています。