ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

歴史学界に対する問題提起

「回顧と展望」の「歴史理論」の項で、羽田正先生は、現在歴史学を専攻する学生数が減っており、グローバルCOEに歴史研究を主体としたプログラムがなく、歴史書の売れ行きが芳しくないと、歴史学が学生からも、行政からも、一般読書人からも魅力や社会的意義がないと思われているという危機感を露わにしています。

このような歴史学界の状況を招いた理由として、羽田先生は、以下の二つの仮説を挙げています。

一つ目は、世界がグローバル化している現在、従来のような日本・東洋・西洋という歴史研究の区分は意味を失っているためだとのことです。一体化する世界では、世界全体の過去を自分たちの過去として意識しなければならないのに、日本では世界史が教育研究の対象になることはなく、研究は地域や時代、専門領域によって細分化されているため、学生には魅力的ではないのではと述べられています。

二つ目は、新しい歴史学の潮流は個々バラバラのままで、現代を理解するための「大きな物語」、つまり世界全体の過去を俯瞰するような「世界史」像が存在しないためだそうです。


また、「近代−ドイツ・スイス・ネーデルラント」の項では、下田淳先生は、日本の学術雑誌に掲載されている論文では、研究史の詳細な把握、論点整理、課題発見、一次史料できれば未公刊の手書きの史料をつかって分析するという手法が貫かれているが、欧米の研究者と同じようなことをしようと躍起になる必要があるのかと問題提起をしています。

われわれ日本人は、当該国の研究者と同じ土俵で相撲をとろうと、そんなに躍起にならなくてもよいのではないか。もっと自由な研究も許されてよいのではないのか。あちらの学会で問題となっている争点・視点や歴史概念にとらわれすぎてはいないだろうか。極端にいえば、そんなものは無視してよいのではないか。さまざまな歴史研究あるいは歴史叙述を、われわれになりに「実験的に」試みてもよいのではないか。そういった試行錯誤のなかから、「われわれの」あるいは「私の」外国史叙述が見えてくるように思うのだが。(348頁)

昨年も同様の問題提起があったので、同じように感じている研究者は、少なからずいるのかもしれません。