ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

メンノ−派歴史協会の会合

5月のオランダへの旅の最大の目的は、Mennonitischer Geschichtsverein(メンノー派歴史協会)の年一回の会合に参加することでした。この会合は5月21日に、ハーレムのメンノー派教会で行われたので、私も出席してきました。

今回の会合は、大きく分けて、午前と午後のプログラムに分かれていました。午前中はポーランドのメンノー派共同体についての公演があり、その後昼食と、ちょっとした観光ツアー、そして夕方の総会が続きました。

朝、会場であるメンノー派の教会に赴くと、すでに多くの方々が集まっており、コーヒーなどを飲みながら、歓談をしていました。私は、歴史協会とのやり取りを、メールや手紙で行っていたので、他のメンバーの方々を誰も知りませんでした。そのため、会場に着く前はかなり緊張していたのですが、皆さん気さくに話しかけて下さって助かりました。

会場にいるのは、当然オランダの方が多かったのですが、みなさんドイツ語もできるので、会話には余り困らなかったことも幸いでした。

今回は、ドイツから、多くの人たちが来ていたということで、私もドイツ組に混じって座りました。講演の初めには、オランダ代表のオランダ語での挨拶、そしてドイツ代表のドイツ語での挨拶があったのですが、その中で、今回の集まりには日本人の学生も参加していると紹介されてしまい、非常に恥ずかしい思いをしました。この時、メンノー派歴史協会に参加している唯一の日本人と紹介されたのですが、後で聞いた話では実は私を含め、日本人メンバーは4人もいるそうです。

今回の講演では、Peter J. Klassen 氏が、オランダからポーランドに移住したメンノー派について英語で発表していました。私は英語の聞き取りは余り出来ないので困ったのですが、ドイツ語の翻訳原稿があったので、内容自体は理解できました。

この講演では、主にダンツィヒのメンノー派共同体について扱われていました。なんでも、ポーランドは宗教的にかなり寛容な国だったらしく、西ヨーロッパで迫害されて逃げてきたメンノー派や改革派(カルヴァン派)が、大勢亡命していたそうです。彼らは、ポーランド王の庇護を受け、手工業や交易などに携わり、ポーランドダンツィヒの経済に貢献していたそうです。彼らがポーランドで寛容に扱われたのは、彼らを受け入れることが、経済的に利益になるという側面があったようです。

こうして、長い間ポーランドで平穏に暮らしていたメンノー派は、一八世紀にポーランドプロイセンとロシアに分割されると、再び危機に陥ることになりました。メンノー派は、徹底した平和主義を信条としていますが、この平和主義は、領邦国家、あるいは国民国家における市民の兵役義務と正面からぶつかったからです。

現在でも、まだ多くの国で徴兵制が残っており、このような国々では、兵役拒否者が国家から圧迫を受け、収監されたり、国外に亡命せざるをえない状況が続いています。彼らと同様に、メンノー派も、プロイセンから迫害されました。そのため、彼らの多くは再び流浪の旅に出て、ウクライナに次の住処を見つけることになりました。

我々は、この講演の後、メンノー派共同体の建物の一角にある展示室の、ポーランドのメンノー派の歴史についての展示も見ました。メンノー派の多くは、結局その後ロシアからも逃げなければならず、最終的にアメリカやカナダ、ウルグアイ、ドイツなどに散っていったそうです。

近世スイスの改宗者や亡命者を扱った踊共二さんの『改宗と亡命の社会史』(創文社)でも、当局の宗派化政策のせいで宗教的寛容が存在しなかったスイスの領邦を離れ、アメリカへと旅だった敬虔派や再洗礼派などの宗教的少数派が登場していました。

メンノー派の歴史は、同時に宗教的少数派の迫害と逃亡の歴史であり、最後はやはりアメリカにたどり着くことになります。メンノー派発祥の地オランダの共同体は、16世紀以来続いた迫害で大半の信徒が逃げてしまったので、現在はアメリカの共同体と比べると、はるかに小さいようです。迫害された宗教的少数派とアメリカの関係の密接さを、改めて思い知らせる気がしました。

講演の後昼食を食べて、少し市内を見回った後、また教会で、ある女性研究者のロシアとオランダのメンノー派についての短い講演がありました。内容は面白かったと記憶しているのですが、メモを取らなかったため、残念ながら詳しい内容を忘れてしまいました。