ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

決定的瞬間の記録

現在読んでいる1591年のランベルティ市区の人頭税の租税記録では、非常に頻繁に後からの修正が施されています。この修正は非常に興味深いものです。たとえば、旦那さんが亡くなり、その奥さんが新たに未亡人になったこと、ある親方の家で、職人が修行期間を終えその家を去り、新しい徒弟が受け入れられたことなど、この時期に個々人に起こった様々な変化を、この修正個所から読みとることが出来ます。

たとえば、14ページに載っている Hinrick Hesselman, kleinsnitker (指物師)は、最初は徴税額を7シリンクと見積もられていました。しかし、後でこの徴税額が消され、変わりに1シリンクが書き加えられています。そして、行の合間に後から、knecht (奉公人)と書き加えられています。このknecht というのは、通常親方の下で働く、職人のことです。

(後記:以下の記述には大きな間違いが含まれているので、2月10日の記述を参照して下さい。)

7シリンクの徴税額というのは、それなりのお金持ちのみに課せられる額なので、彼はおそらく元々仕立屋指物師ギルドの正規のメンバーで、親方として結構裕福な生活をしていたと思われます。

約10年前の1582年の租税記録では、彼は4シリンクしか租税を支払っていません。4シリンクという徴税額は、貧しくもないが、それほど裕福でもない住民の払う金額です。1582年の租税記録は、全財産に応じて徴税額が決められるため、全般的に人頭税よりも遙かに徴税額が大きいです。にもかかわらず、1591年の当初の徴税額が、1582年の徴税額を大きく上回っていたわけですから、この間にヘッセルマンは、かなり事業に成功し、財産を何倍にも増やしていたと考えられます。

このようにそれまで順風満帆の職業人生を送ってきたと思われたヘッセルマンは、まさに1591年の徴税額算定と、その後の徴税、あるいは再調査の間に、職を失い、奉公人に零落してしまったのです。この間に彼に何が起きたのか分かりませんが、彼が親方としての資格を失い、他の親方の下で賃労働を行って生計を立てねばならない状態に陥ったことには間違いがありません。

彼がこの年支払った1シリンクという金額は、奉公人、女中、未亡人、日雇い労働者、間借り人などの貧しい人たちの支払う金額です。特に職業の記載のない多くの住民もかなりの部分1シリンクと見積もられているので、ある程度以下の財産の住民は、皆1シリンクと算定されたようです。つまり、彼らの中でもかなり財産の違いはあるはずですが、彼らが皆貧しい人々であることには違いがありません。つまり、ヘッセルマンは、それなりに高額な租税を支払う立派な中産市民から、下層民へと落ちてしまったことが、この徴税額から分かります。

私が調べたのは1582年と1591年だけですが、さらに他の年の租税記録を調べれば、その前後のヘッセルマンの運命も分かるはずです。租税記録を継続的に見ると、個々人の経済や社会状況の変化が、場合によっては、かなり厳密に分かるのです。

租税記録は、通常市内の人口構成、財産階層や市内の財産分布など、全体状況を把握するために使われることが多いと思いますが、個々人の人生を映し出す史料としても、途方もない可能性を秘めています。だから、租税記録を見ていると、非常に様々な利用方法が思い浮かび、夢がどこでも広がる思いがします。

ランベルティ市区の1591年の徴税記録は2つありますが、一つ目は非常に修正が多く、二つ目は修正がほとんどありません。しかし、この二つは、まるっきり同じというわけでもないようで、単なる清書ではないようです。他の年の徴税記録でも修正はありますが、1591年の記録は、私がざっと眺めた限りでは、他の記録と比べると、ずば抜けて修正個所が多いです。

非常に多くの個人の徴税額が、下方修正されていますし、一度徴税記録に載った名前が、その後家族ごと抹消されたりもしています。この年に何か特別なことが起こったのか、それとも記録の仕方や徴税の仕方の問題なのかは、まだ分かりません。これ以外にも分からないことは山ほど出てきますが、このような技術的な問題を一つ一つ解決するのもまた、楽しいものです。