ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

フランスでの歴史学を取り巻く状況

感性の歴史学―社会史の方法と未来 (神奈川大学評論ブックレット)

感性の歴史学―社会史の方法と未来 (神奈川大学評論ブックレット)

日本ではどうか知りませんけれども、フランスでは歴史の本というのはどんどん読まれなくなってきています。特に一九世紀の末から二〇世紀の初めを扱ったものというのは、どんどん読者が離れていっています。どうしてだろうと思いますけれども、いまの社会のなかでテレビやラジオを、新聞の見出しなどを見ていると、いつもそこで興味をひきつける対象になっているのは、「感情」「感動」「情熱」という三位一体だと思われるのですが、それが一九世紀末から二〇世紀初めを扱った歴史の中には欠けているということです。(中略)どうしてだろうと思うのですが、そこに、研究者が求めているものと読者が求めているもの、期待しているものとのズレがあるんだと思います。(三五頁)

パオロ・マッツァリーノさんが良く、学問が面白くないから、人々は研究書を買わないのだというようなことをおっしゃっているように思いますが、そもそも学問に対する需要というのは、非常に限られているのではないか、日頃仕事や家事や勉強やら何やらで忙しくしているのに、読むのが面倒な本をわざわざ読もうと思う人が少数なのは、極当然のことではないか、そもそも需要がないのだから、面白くしようと努力しても、焼け石に水なのではないかなどと、思わないことはありません。

フランスではいま大学で職を得るというのは非常に難しくなっていまして、ポストがないのです。必ずしも経済的な不況ということだけではなく、大学でそういう研究職に就くことが非常に難しくなりつつあるので、若い人たちは、安全策として、非常に伝統的な、古典的なほうに回帰するという傾向にあります。つまり、自分を採用してくれるかもしれない年配の先生が、彼がやらなかったようなテーマを前にして、二の足を踏まないように、より安全な、より確実なテーマに戻るという傾向がかなり見られています。(中略)そういう問題は、私個人的にはあまり関心がなくて、「感性の歴史」のほうがもちろんおもしろいと思うのですが、若い人たちが自分のキャリアを考えたときに、それだけの犠牲を払うかどうかというのは別の問題です。(四二−四三頁)

ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル コルバンさんは、リアリストなのですね・・・

あと、フランスで、学生が「論文を書きたいんですけれども、テーマがほしいんですが」と、先生にテーマを決めてもらおうということがあるらしいのですが、彼らはなんのためにリスクを背負って歴史学をやっているのか、なかなか理解が難しいように感じられました。