ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

市参事会対説教師

相変わらずひたすら文献を読んでいますが、その過程で、宗教改革運動における市参事会と説教師に関係について、もっと検討する必要があると思うようになってきました。

ある都市で宗教改革が導入されるためには、市参事会が首を縦に振らなければなりません。そのため、宗教改革を導入するためには、ほぼ必ず市参事会を改革側に引っ張り込むことが必要となります。そのため、市参事会と説教師は、概ね協力しながら、宗教改革を市に導入し、様々な改革を実現させていきます。

しかし、宗教改革導入後、市参事会と説教師の関係が決裂することがしばしば起こります。説教師は、都市をより宗教的にする神権制的な宗教政策を望んだ場合、市参事会の宗教政策と齟齬が生じ、お互いがイニシアチブを争うということが往々にして生じます。

このような場合、ほとんどの場合、市参事会が勝利するようです。そしてその後、説教師がその街を追放される、あるいは自分から出ていくということが生じるようです。たとえば、シュトラスブルクではMartin Bucer (マルティン・ブーツァー)、ニュルンベルクでは、Andreas Osiander (アンドレアス・オジアンダー)が、それぞれ市参事会との争いに敗れ、街を離れています。彼らのような、その街の宗教改革運動で中心的な役割を果たし、その街を越えた名声を保っていたような名高い神学者であっても、市参事会と争った場合には、敗れざるを得なかったわけです。

つまり、説教師の権威、あるいは神学的な主張は、教会に関する権限を手にした市参事会の政治的権威と実力の前では、ほとんどの場合、十分な力を持ち得なかったと言えます。

しかし、ミュンスターでは、市参事会と説教師であるベルンハルト・ロートマンが対立したとき、最終的に、ロートマンが勝利しました。私は、まだこの問題に余り通じていないので、なんとも言えませんが、おそらく市当局と説教師が争って、説教師が勝利するという例は、かなり珍しいのではないかと思います。

この理由については、現在でも一応の解答を用意することはできますが、今後は、市参事会と説教師の力関係、あるいは争いという観点から、他の都市と比較し、より広い視野で考え直すことも必要だろうと思っています。ヴェストファーレン地方の他の諸都市でも、説教師の追放は生じていたと記憶しているので、追々その辺りの文献も探っていこうかと思います。