ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

歴史学研究会ヨーロッパ中世史・近世史合同部会6月例会

先週の土曜日に、いつもお世話になっているMSIJ で知った、早稲田大学で開かれた歴史学研究会のヨーロッパ中世史・近世史合同部会6月例会に行ってきました。この例会では、国際基督教大学の早川朝子さんが「再洗礼派ハンス・フートとアウクスブルクの『ゲマインデ』」という発表を行いました。再洗礼派関係の発表なら、行かないわけには行くまいと思い、東京まで行ってきました。

歴研の例会は、各大学の院生が集まり、1時間半の発表を聞いた後、1時間半の質疑応答を行うというようなものらしいです。

この日の発表は、早川さんが昨年提出した博士論文の内容を紹介したものです。そのため、非常に内容の濃い発表になっていたと思います。

発表の内容は、お上は再洗礼派を恐れていたが、その恐れに根拠はあったかという問題意識に則り、アウクスブルクにおける再洗礼派共同体の結束性、そしてこれまで南ドイツ再洗礼派のリーダーであると見なされてきたハンス・フートのアウクスブルク再洗礼派共同体への影響、特に終末論の影響を探るというものです。

早川さんの発表を聞いて驚くことが、幾つかありました。一つは、アウクスブルク再洗礼派の研究が、日本に限らず、ドイツでも1972年以降ほとんど進んでいなかったことです。アウクスブルクと言えば、神聖ローマ帝国を代表する都市であり、あらゆる分野の研究が進んでいるものだと思っていたのですが、再洗礼派研究は例外だったようです。そのため、早川さんの研究は、30数年ぶりに出た、アウクスブルク再洗礼派についての本格研究と言うことで、かなり画期的なものだと言えると思います。

もう一つは、アウクスブルクにおけるハンス・フートの影響力が、思いの外小さかったことです。従来の再洗礼派の概説書では、ハンス・フートが南ドイツで最も大きな影響力を持った指導者だったと説明されていたのですが、アウクスブルクでは、ハンス・フートから洗礼を受けた信者も少ないし、彼の終末論も、一部の指導者を除いて、余り広まっていなかった可能性が高いそうです。

発表中は、この理由については語られませんでしたが、発表後の質疑応答で、ハンス・フートの影響の弱さは、彼が一箇所にほとんど留まらず、次々と移動し、洗礼を授けていくという、彼の宣教スタイルに起因しているのではないかという話が出てきました。

また、この博士論文の白眉とも言うべき、再洗礼派の居住地分析は、居住地や職業と再洗礼派共同体との関係を示唆する非常に興味深い分析でした。今後、より広い視野から検討を要求する、難しいけれども、大きな可能性を持つテーマだと思います。

また、アウクスブルクでは、再洗礼派による共同金庫運営が失敗するなど、再洗礼派共同体の結束が弱かったようですが、上記の宣教の問題と共に、北西ドイツや低地地方の再洗礼派共同体を考える際にも、示唆的だと思いました。たとえば、低地地方の再洗礼派は、必ずしもミュンスター再洗礼派に呼応したわけではなく、むしろ冷淡な反応をした再洗礼派が多数派でした。また、アムステルダムでの再洗礼派蜂起の際、ほとんどの再洗礼派が参加しなかったこと、あるいはヤン・マティスの死と予言の失敗の後の低地地方の再洗礼派の態度などを考える際、南ドイツ再洗礼派の事例は、様々な示唆を与えてくれるのではないかと感じました。

また、この日驚いたのは、なんとメンノー派を研究している方が来てらっしゃったことです。まさか、日本にメンノー派研究に携わっている方がいるとは思いませんでした。しかし、偶然にも、現在の日本では、初期宗教改革時代の南ドイツ再洗礼派の研究者、北西ドイツ再洗礼派の研究者、そして16世紀半ば以降のメンノー派の研究者が同時多発的に現れたのです。いやあ、盛り上がって参りました。

研究会の後は、懇親会と言うことで、他の方々と飲み屋に行き、色々と話させていただきました。しかし、驚いたのは、東京の大学の院生のネットワークの広さです。会話の中に、東京の色々な大学の学生の名前が次々に挙がっていたので、東京の大学の院生同士には、かなり緊密な繋がりがあるのだと実感しました。これは、地方の大学では、なかなか難しいことです。なんとか、地方の大学も、このようなネットワークに参加し、現在の日本の西洋史学会の雰囲気を感じることができるようにならないだろうかと、思わないことはありませんでした。