ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ロマン主義とアイロニカルな態度

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学


この本は、著名な社会学宮台真司北田暁大の対談集です。話しているテーマは、主にアイロニカルな態度、あるいはロマン主義が歴史的にどのような文脈で登場、発展し、どのような結果をもたらしたか、そしてそのような歴史を踏まえた上で、現代の日本でどのような態度を取るべきかを模索するという感じでした。対談なので話の筋は必ずしも明快ではないし、異様なほどの情報量と、踏まえなければならない図式の数により、かなり全体の議論の把握が難しいと思いました。

この本で面白かったのは、ロマン主義を、通常とは少し異なる用法で使っていることです。通常ロマン主義は、文学、音楽、絵画などの芸術を表すときに使います。Wikipedia を見ても、芸術以外では、ナショナリズムくらいしか出てきません。

一方、この本では主に次のような意味で使われます。

そこでロマン派的な感受性についてです。これは周知のとおり、<社会>−人間関係的なもの−の外にある<世界>−全体性−に接触したがる一九世紀的な欲望です。近代の複雑な<社会>のなかでは<世界>との接触は不可能ですが、不可能だからと知るからこそ<世界>と接触したいのだという逆説的関係があり、ロマン派はこれに自覚的です。

(中略)

だから、ロマン主義とは「全体性の希求という不可能性を擁護する立場」なんですね。(51-52頁)

私はこのようなロマン主義の定義に、どの程度の一般性があるのか知らないので、何とも言えませんが、大変興味深い見方だと思います。というのは、このような不可能性を自覚しつつ、「あえて」信じたり、行動するということは、あらゆることが自明でなくなり、再帰化されていく現代の社会においては、不可避ともいえる態度であろうと思うからです。

興味深いのは、このようなアイロニカルなロマン主義は、近代化後発国、つまりドイツや日本に適合的で、近代化先進国で、ベタが信じられている英米では、余り広まらなかったという指摘です。宮台さんは、アイロニカルであり得る近代後発国は、学問をやるには良いのではないかと言っていましたが、現在の社会学で、果たしてアイロニカルな態度を主流だといえるのだろうか、むしろベタゆえに力強く、躊躇のないアメリカの実証主義に、大陸系の研究は駆逐されていくことはないのだろうかと、なんとなく思いました。

この本の中では、過去の歴史を鑑みながら、最初は「あえて」行っていたつもりでも、その後はベタに受け取られ、悲劇的な結果を生むのではと危惧する北田さんと、それを承知で「あえて」行うべきと考える宮台さんの考えが、微妙に対立していたように思います。

また、この本で宮台さんは、アイロニーが自己目的化され、際限のない梯子外しを行うという脅迫から逃れるために、歴史と教養が重要であると考えています。

ようは、僕たちには別様の虚構があり得たはずだということです。僕たちはもっと頼りになれる虚構をつくれたのかもしれないのに、それができていない。いったいなぜか。その理由を考えることが、「終わりなき再帰性」を「終わりある再帰性」へと引き戻す梯子になるんですね。(396頁)

歴史をさかのぼると、同じに見えるものの意味が、かつては違っていたことがわかります。それがどう違ったのかを、理解する訓練が大切です。そういう思考訓練をつづけるとどうなるのか。旅をして広い世界に自分を位置づけなおすのが教養だと言いました。教養主義的な意味で、世界の時間軸のなかに自分を位置づけ直せるんです。
そのことは不透明性のただなかで抑鬱的になりがちな若い人たちに、カタルシスを与えます。こうしたカタルシスを味わうことにより、歴史をさかのぼることがエンジョイアブルであることが理解され、しかも自分自身の位置を見いだすことができる。「終わりなき再帰性」のなかで意味が空転する複雑な社会システムだからこそ、これは有益なことです。(398頁)

現在の歴史学が、どの程度このような役割を果たしているかは分かりませんが、現代史、理論的な歴史研究、あるいは長期の変化を扱う研究などは、このような目的に、合致することもままあるだろうと思います。

何分十分に理解するのは多くの労力を必要とする本ですが、他にも興味深い指摘が山のようにあり、この本は、何度も繰り返して読んで、一生懸命咀嚼したいと思いました。