ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

少数派の生き残り策

部外者には良く分からない理由があるのでしょうが、ずいぶん前から複数のブログを巻き込み延々と続いているアメコミ論争があります。現在は、稲葉振一郎さんのブログで継続しているようです。私はこの議論は真面目に読んでいないので、把握していませんが、稲葉さんのコメントの中で、お金にならない少数派の生き残り方が書いてあったので、一部単語を入れ替えて、ご紹介してみます。

ここで蛇足ですが、コミットする少数派はいったいどうすればよいのか? について考えてみます。ひとつの戦略は、いわゆる「芸術」、また伝統芸能のそれです。ビジネス的自立が不可能になったら、こんどは「文化」として公的な保護の必要性を訴えるわけです。たとえば「歴史学がなければ、実はあなたがたみんなも困るのだ」と世の中に主張し、それにふさわしく、税金を財源とした支援を得るのです。すでにいわゆる主流文学はこの局面に差し掛かっているのではないでしょうか。日本でもアメリカでも、少なからぬ作家たちが大学教授の椅子を得ています。これは日本のSF作家の場合も例外ではありません。昨今の「まんが・アニメ立国」路線においても、同様のことがやや先取り的に行われているようですが。いわゆる歴史学の場合はどうでしょう?

 この種の主張にもっともらしい経済学的な裏づけを与えることはさしあたりは用意(容易)で、外部効果を言い立てればよいわけです。つまり、その価値が分からなくて金を出してまでほしいと思わない人々にとっても実は有益なんだ、と言う理屈です。学術研究への公的支援の理屈付けってこういうものでしょう。

とりあえず日本市場に限定しますと、工学部は(あるいは法学部は)十分に採算がとれていて産業として自立しているから問題なし。それに対して歴史学は(あるいは文学部は)ダメ。
しかし実はそれは鑑定眼のないあほな大衆の近視眼的な選択の結果であり、実は歴史学のメッセージは(あるいは人文科学が提供する教養は)、長期的に見れば大いに公益に貢献するはずなのである。だから公益の観点からは、産業としては弱小で自立できない歴史学(あるいは人文科学)も、保護して絶滅から守ってやる必要があるのだ――とか。
市場での勝ち組(この場合は日本における工学、法学)のことなんかほっときゃいいんです。採算がとれないものをこそ、その愛好者は自腹を切って、更にその正当性を論証できるなら、国民の血税を頂いて、守るべきなんです。
平田オリザ『芸術立国論』の「芸術保険』構想なんてもろこんな感じですよ。


テンプレにできるほど汎用性が高い文章だと思います。歴史学というのは、言うまでもなく大学、あるいは公的機関において、税金を投入していただくことでしか存続不可能なものであり、上記のことはとっくの昔に行われています。現在における歴史学の問題は、大学市場縮小局面における予算やポスト獲得を巡るゼロサムゲームで、科研費やCEO、あるいは個々の大学において、いかに歴史学にお金やポストを引っ張ってくるかということなのでしょう。