ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

羽田正「有用な歴史学」と世界史

羽田正「『有用な歴史学』と世界史」(『UP』400、2006年2月、1-6頁)。

国民国家「フランス」や「ドイツ」は、一九世紀はじめの段階ではまだ実現すべき目標だった。ところが、「フランス」や「ドイツ」の歴史を書こうとすれば、過去において「フランス」や「ドイツ」がすでに存在したか、少なくともこれらの原型が存在したことを前提とせねばならない。また、現実に「フランス」や「ドイツ」が存在していると想定するから、その過去を探ることができる。民族、国民、文化圏などひとまとまりの人間集団を単位とし、時系列に沿ってその変転の様を整理分析し、過去を「あるがままに」叙述することを特徴とする近代歴史学は、このように実現すべき目標を現実の存在として描けるという特性を持っている。追及すべき目標やイデオロギーが実体となりうるのだ。形成途中の国民国家が大学に新たに歴史学の講座を設け、積極的に歴史研究を保護・奨励したのは当然である。歴史学は何よりも国家にとって役に立つ学問だったのである。(1-2頁)

私は近著で「イスラーム世界」はイデオロギーだから、その枠組みを取り入れて世界史を描くことはやめるべきだと主張した。統一的で客観的な世界史を構想するなら、そこに政治的な立場を持ち込むことは避けるべきだと考えたからである。しかし、あらためて考えてみれば、現行の我が国における世界史、とりわけその近現代史は、「フランス」や「ドイツ」、あるいは「日本」といった国民国家の枠組みを用いて叙述されている。実体化したとはいえ、これらの国民国家もかつては政治的なイデオロギーだった。その意味では、現行の世界史そのものが、一つの政治的立場に基づいて記されたものなのだ。(中略)だとすれば、「イスラーム世界」はイデオロギーだから、世界史叙述でその語を用いるべきではないとの私の主張は言葉足らずであり、十分に説得的とは言えない。(2頁)

二〇世紀以後のフランスや最近の日本などでは、しばしば「歴史学の危機」が叫ばれ、新しい研究視角が提唱されている(中略)「歴史学の危機」とは、時の流れとともに変化する現実の政治や社会の要請に、歴史学が必ずしも有効に対応できないでいることへの批判ととらえるべきである。私たち歴史学者は、既存の歴史学とその枠組みを当然視し、そこに安住してはならない。現代社会の求めに応じて、常に自らを革新していかねばならないのである。(中略)現在人類がもっとも必要としているのは、世界全体を一つの単位とする歴史、すなわち世界史ではないだろうか。(3-4頁)


要するに、著者の羽田さんがおっしゃっているのは、「国民国家イスラーム世界と同様に、世界史もまたイデオロギーであり、一つの政治的な立場に基づき書かれるものだが、現代社会が求めているので、これからは世界史をがんばって研究していこう。」ということです。何というアイロニカルな態度!!知的に誠実ではありますが、ずいぶん身も蓋もないので、そういうことはあえて言わないでおいた方が良いような気もしますが・・・・・・

この間の日本西洋史学会の講演でも、世界はグローバル化しているから、これからグローバルな歴史を研究していこうという話を、高山博さんがしていましたが、どうも現在の歴史学会では、一国史を越えた世界史をやろうというのがちょっとした流行になっているようです。

個人的には、羽田さんのように誠実にネタ晴らしをしてしまうと、本末転倒だと思われてしまうのではないかと思いますし、また、本当に世界史は現代社会に有用であるのかどうか、それ以上に現代社会において需要があるかどうかも私には判断できませんが、世界史の有用性の強調などの(需要喚起のための?)努力は現在の歴史学界に必要なのだろうと思います。


追記

何か、稲葉さんのところで、紹介されてしまい、沢山人が来ているようなのですが。

こんな風に煽って大丈夫なんですかーーーー?

これは私が何かを煽っているように見えたということでしょうか? ((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル そんなつもりは毛頭もないのですが、やっちまいましたでしょうか・・・・・。コメント消した方が良いですか・・・・・・