ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

文化多元主義と多文化主義と保苅実


この間私が紹介した日本宗教史学会のパネル・ディスカッションやベネディクト16世の講演とも関わる話ではないでしょうか。私も、保苅さんのこの本を拝読させていただいたのですが、博士論文で、これほど独創的で、型破りで、気宇壮大なものを書いてしまうとは、とんでもない人もいるものだと思ったものでした。

私は方法論的な本を読むと、どうしても自分の研究に使えるかどうかを考えてしまうのですが、その意味では使えないと思いました。その理由の一つは、オーラルヒストリーは対象が生存していないと成り立たないからです。他方、対象の歴史実践の尊重についても、対象がこの世に存在していないので、内在的に理解するために役立つという実際的な意味を除けば、余り必要がないからです。個人的には、保苅さんの方法論は、対象がまだ生きている、あるいは過去の歴史が現代の人間にとって未だに重要である場合にのみ、特に有用なものではないかと思います。すでに関係者が皆死に絶え、人々の記憶の中で風化してしまい、全くどうでも良いとしか思われないような歴史的事象に基づいて、何かを実践する人はいないので。そういう意味では、政治やイデオロギー、伝統、文化、アイデンティティー、権力関係が渦巻く、特に面倒なテーマと相性が良い気がします。

この本は、結構大きな反響を呼んだように思いますが、結局は、歴史学全体の根底を揺さぶることはなく、ラディカル・オーラル・ヒストリーも多様な歴史学の潮流の中の一つとして日常化していくのだろうと思います。ただし、長い目で見るとどうなるかは、まだ我々には分からないわけで、百年くらい経つと、現代とは異なり、ありふれた内容だと見なされる可能性を持った本かも知れません。

あと、文化多元主義多文化主義との区別も、関わってくることだろうと思います。大半の歴史学者は、当然の事ながら、文化多元主義を支持し、日々実践しているのだろうと思います。それは、是か非かという問題というよりは、「そういうものだ」と言うより他にないものだろうと思います。

政治思想では、カルチュラル・プルーラリズム(Cultural Pluralism)の訳語として使う場合もある。この場合はマルチカルチュラリズムを単に「多文化主義」と明確に区別する。カルチュラル・プルーラリズム近代主義とセットで使われ、同じ文化の多様性を標榜する思想ながら次のような違いがある。マルチカルチュラリズムが近代を数多ある文化のひとつとして位置づけるのに対し、カルチュラル・プルーラリズムは近代の中の枠内での多様性を認めるとする。リージョナリズムのように近代と両立可能な範囲でローカルなものを再帰的に維持しようとする立場もある一方、ネオコンのように近代の枠内と両立不可能のものをすぐさま排除しようとする立場もある。
Wilipedia 「文化多元主義」