ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

苦情書は反乱者の意志を伝えるか?

「一五二五年のドイツ農民戦争時の叛徒の諸要求は、より信頼できるかたちで残存している。それらは叛乱の理由を公に知らせるためにそのときに印刷されたからである。しかしそれでも問題は残る。それらの要求箇条がどのようにして作成されたかが知られていないからである。有名な『メミンゲンの十二箇条』は、各教区は自らの司祭を選ぶことを許されるべきだという要求で始められている。それらの箇条は、市の書記、ゼバスチアン・ロッツァーと説教師クリストフ・シャペラーを含むメミンゲンの人々の助けを借りて起草された。この要求が農民にとってもっとも重要なものであったのだろうか、彼らの名において要求書を作成した人々にとってもっとも重要なものだったのだろうか。事実においては、司祭選出権はシュヴァーベン地方で出された苦情の地方毎の箇条書中のわずか一三パーセントで、また『十二箇条』以前に作成されたものについては、わずか四パーセントで述べられているにすぎない。

農民一揆の指導者はしばしば貴族か聖職者であって農民ではなかった。これらの人々が選ばれた背後には、運動を正統化するためとか、それとも農民指導権をとるだけの経験が欠けているということが考えられる。これらの貴族や聖職者たちは、自発的な指導者でないどころか、指揮をとるように追い込まれ強制されたのだと考えられる場合もある。少なくとも彼らは、あとでこのようにいっていることが少なくないが、おそらくそれは責任を回避しようとしてのことであった。自発的な指導者であったにせよ、なかったにせよ、これらの人びとは媒介者でもあったのであり、この運動に参加した一般大衆が−魔女たちと同様に−本当に考えていたことを彼らが実行していたと立証することは、歴史家にとって困難なことである。」


ピーター・バーク著、中村賢二郎、谷泰訳『ヨーロッパの民衆文化』人文書院、1988年、107頁


通常、反乱者の目的、意図を分析するときには、文書として抗議と要求がまとめられた箇条書が使われます。しかし、この分析方法には、上のような問題があります。どこかの箇条書が起草されるまでの過程が、綿密に分かり、指導的な立場にいなかった反乱者たちの意志がどのように箇条書に盛り込まれたのか、あるいは盛り込まれなかったのかが分かれば、参考になるのですが。

ハインツ・シリンクのゲノッセンシャフト的蜂起運動モデルにおいては、特に経済危機で不満を持った下層民の要求を、市民委員会、市区の代表者、ギルド長や長老などが引き受けたとされます。そして彼らが、暴発しかねない下層民の怒りを、都市の制度的な枠組みの中に押しとどめたことによって、都市の秩序が保たれたとされます。1525年の反乱でも宗教改革運動でも、市民の代表によって箇条書が作成されています。しかし、この箇条書の中で挙げられた市当局への要求が、シリンクが思うところの反乱の起動要因となった下層民の不満と要求を、どの程度反映していたのかは、当然ほとんど分かりません。

長い間再洗礼派研究では、運動の主体が下層民かどうかが問題になってきましたが、実は、これまでまともに正面から、下層民が運動においてどのような役割を果たしたかという問題を扱った研究は出てきていません。下層民の影響はほとんどなかったというキルヒホフの説にも、経済危機に起因する下層民の不満が都市反乱や宗教運動の起動要因になったと考えるシリンクの説にも、きちんとした実証的な裏付けがありません。では、下層民は、宗教改革運動や再洗礼派運動に、どのように参加し、運動の進行にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。

下層民は史料にほとんど出てこず、しかも史料の書き手の偏見が彼らの像を歪めてしまっています。その中で、いったいどうやって、下層民をめぐる諸問題に切り込むかが問われるわけですが、これもまた技術的に極めて解決が難しい問題だと思います。