ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

西洋史研究会大会第二日目:共通論題「Nations in Medieval Britain」

二日目は、朝10時から、夕方の5時までという長い時間を使って行われた初期中世のブリテンにおけるネイションを扱ったシンポジウムが行われました。熊本大学鶴島博和先生が主催し、イギリスとアメリカから研究者4人を呼んで行われました。私は、「研究者だったら、英語ぐれえ分かって当たり前だよな」原理に則り、発表も議論も全て英語のみで行われ、私は置いてけぼりをくらうものだとばかり思っていたのですが、日本語訳のレジュメが配られ、日本学術振興会特別研究員の赤江雄一氏が通訳を務めるなど、英語初心者にも優しいシンポジウムになっていました。

まず最初に、鶴島先生から、「What is and waht was nations in early medieval Britain?」という問題提起が行われました。

発表ですが、私は、イギリスの地方名や都市名を良く知らず、どの地方がイングランドウェールズスコットランドなのか、良く分からなかったので、発表の内容も、かなりちんぷんかんぷんでした。この日の発表はNation を扱っていたので、これらの区分が非常に重要だったように思われますが、それを知らない時点で、私には聞く資格がなかったような気がしました。以下、適当にメモを書きますが、内容的の正確さは全く当てにならないこと必然であり、後日雑誌『西洋史研究』で、この日のシンポジウムの様子が詳しく掲載されるそうなので、そちらをお待ちいただくことを強くお薦めいたします。

最初の発表は、英国王立歴史学会会員であるAnn Williams 氏の「Why are th English not the Welsh?」でした。この発表では、いかに大陸からやって来た外来のゲルマン民族たちが「イギリス人」、その前からいた在地のブリトン人が「ウェールズ」と共通のアイデンティティーを構築するに到った過程を検討していた気がします。6世紀初期には結構仲良くしていた外来者と在来者ですが、6世紀中頃になると在来者たちは、外来者たちが作った諸王国に吸収されていったそうです。この時期に、「イギリス人」と、「ブリトン人」つまりウェールズ語を喋る人々のアイデンティティーが生まれたそうです。その後、7世紀になると、両者の争いは激しくなり、この時期にイギリス人とウェールズ人は、お互いに強い敵意を持つようになったそうです。そして、アルフレッド大王の時代である、9世紀末までには、法典でブリトン人という区別はされなくなており、ウェセックスブリトン人は、単にイギリス人と見なされるようになっていたそうです。この発表で言いたかったことは多分、次の部分かと思います。

中世において、今日理解されているようなエスニシティーは、集団の結束を発展させる役割は果たしていなかった。「出自」(genus) は「ネイションフッド」を定義する観点の一つであったけれども、それは生物学的実体よりも同時代人の忠誠心に基づいていた;神話的ないし半神話的祖先からの出自は、現状を確認するために回顧してつくりあげられた、そして「血族の神話はイングランド史の次の建造物成長した」。したがって「イングリッシュネス」の観念は、イギリス人出自の人々によるのみならず、同様にブリトン人起源の人々によっても受け入れられた。(当日配布のペーパー10頁)

一言で言えば、イギリスは、想像の共同体だった、という感じではないでしょうか。

次の発表は、元シェフィールド大学のDavid Roffe 氏による、「The Danes and the Making of the Kingdom of the English」でした。この発表では、9世紀にデーン人が侵入してきたが、彼らは、とりたてて民族意識を持たず、民族よりも、城塞都市や地方という場所への忠誠心の方が強かったそうです。そのため、彼らは自分たちをデーン人と言うよりも、ヨークの者、リンカンの者、ノッティンガムのだと考えていたそうです。彼らをイングランド王国に組み入れるために、州制度が導入され、この制度は後にデーンロー地帯北部から、他の地域へと広がっていったそうです。

次の発表は、カーディフ大学のWilliam Aird 先生による、「Northumbria and the Making of the Kingdom of the English, c. 1000-1157」でした。私は、ノーサンブリアというのが、そもそもどこにある、どんな地方なのか全く知らなかったので、内容もさっぱり分かりませんでした。ノーサンブリアというのは、イギリス歴史叙述の父と呼ばれる修道士ベーダのいた修道院があったそうです。良く分かりませんが、とりあえず、イングランドは多くの民族集団から成る政治的まとまりで、イギリス人らしさも、単一のエスニシティではなく、複数のエスニシティの組み合わせをいうのだそうです。

最後に、カリフォルニア大学のEmily Albu 先生による、「Normans nad the Making of the Kingdom of the English」という発表が行われました。11世紀にイングランドを征服したノルマン人ですが、彼らは、ノルマンディーを離れると、彼らの共通のアイデンティティーはすぐに消え去ってしまったそうです。ノルマン人は、征服から一世代のうちに、土地及び教会の領主としては、ほぼ完全にイングランド人に取って代わったそうですが、征服から一世紀ほどで、ノルマン人は、自らをイングランド人と認識するようになっていたそうです。彼らの征服は、ノルマン人もイングランド人も変化させ、新しいイングランドを生み出したということです。

この時すでに開始から三時間以上経っていたのですが、一度お昼休みを挟んで、午後に再開されました。

質疑応答は、壇上に発表者四人と鶴岡先生が上がり、質問用紙に書かれた質問を元に、四つの問題が扱われました。

一つ目は、異なった言葉を使う人々同士のコミュニケーションで、通訳が使われたかどうかが問題となりましたが、公的な場では、通訳がいることが多かったようです。余りに当たり前なので、史料でも、わざわざ書かれないことが多かったようです。また、親族に異民族がいて、バイリンガルな人が仲介したりすることもあったようです。また、、日常的に関わりがあるので、通訳がいなくても、複数の言葉を理解する人も多かったそうです。

二つ目は、歴史叙述が、ノルマン征服以前と以後で変わったかどうかが問題になりましたが、征服後、歴史書が爆発的に増えるなど、大きな変化があったようです。ただ、11世紀には、ビザンツでも歴史書が増えたので、関連があるのかもという意見もありました。また、12世紀ルネサンスとの関わりも指摘されました。また、ノルマン人は、何故イングランドを征服しなければならないかを意味づけ、正当化する必要があったからという側面もあったそうです。

三つ目は、Englishness についてで、Nation をまとめるものとして、政治的要素だけでなく、キリスト教という宗教的要素が不可欠だ他のではないかという問題が扱われましたが、質疑応答が、余り噛み合っておらず、答えは良く分かりませんでした。ただ、イングランドでは、アイルランドからの宣教者によって宣教されたところと、ローマからの宣教者によって宣教されたところで、典礼の方式が異なっていたのが、7世紀に統一されたそうです。そのため、教会の統一が先で、政治的統一は後だったそうです。また、Englishness は、ベーダの時代には、極一部の人々にしか通用せず、一般には浸透していなかったそうです。また、Englishness は、社会的構築物であり、後から振り返って作られるものだそうです。Ross 氏は、色々な人々を許容できたことがEnglishness だと考えているそうです。

四つ目のNation の概念については、時間も残りわずかでしたし、良く分からないまま終わった気がしました。

質疑応答を聞いていて印象的だったのは、イギリスの研究者の方は3人とも、マイクを離して持っていたことです。必ずしも大きな声で、明快に話すわけではないのに、マイクを遠くに離してお話になるので、聴衆にとっては、必ずしも聞きやすいとは言えなかった気もしました。アメリカのAlbu さんは、マイクを口に近くに寄せ、なおかつ非常に明瞭に、大きな声で話していたので、聴衆のことを考えて話していることが伺えました。やはり、アメリカの方の方が、プレゼンが上手なのでしょうか。私は、存じませんが。また、一人で長時間の通訳をこなした、赤江さんの八面六臂のご活躍が大変印象的でした。

また、発表途中で最初に用意されていた和文ペーパーだけでなく、英文ペーパーも急遽配布することになったようで、スタッフの方がドタバタしており、大変そうだと思いました。

正直、私の研究とは、ほとんど関係がないテーマだったので、理解するのが難しかったりしましたが、Nation の捉え直しの試みが、どのように行われているかを拝見させていただき、それはそれで有益だったように思います。