双曲割引説への批判は妥当か?
山形浩生氏が翻訳を手掛けたジョージ・エインズリーの『誘惑される意志』(NTT出版、2006年)は、大変面白い本です。この本では、人間が短期的な欲望に負けやすいのは、人間が利益を時間が進むに従って双曲線的に割り引く、つまり現在の利益を大きく見積もり、将来の利益を過小評価するからだと説明しています。この本は、必ずしも実証的ではなく、エインズリーの推測や想像による記述もかなり多いと思いますが、非常に面白い示唆が多く、その是非は別としても、興味深い記述に溢れていると思います。
この本の巻末には、訳者の山形氏による解説が付け加えられています。その中に、「双曲割引関数に対する批判」という節があり、友野典男氏の『行動経済学』(光文社新書、2006年)で紹介されていた双曲割引説への批判も紹介されています。この節で紹介されている批判は二つです。
一つ目は、マリッジ・ブルーやバンジー・ジャンプなど、大きな利益が得られると見込んで選択したイベントなのに、直前になると後込みをしてしまう事例は、双曲割引説に反するという批判です。山形氏は、少し遅れてやってくる大きな利益があっても、その手前に来る小さなコストが直前になると大きく見えるという本書の双曲割引説と合致しているのではないかと双曲割引説を擁護しています。
そこで、友野氏が紹介している批判を見てみると、以下のようになります。先ず前提として、割引率の特徴として、支払い(損失)については、受け取り(利得)と比べてはるかに小さい値を取り、かつ受け取りに関する割引の方が急激に減少するという特徴が見られます。(229頁)そのため、双曲割引理論によると、利得は時間の経過とともに急激に減少しますが、損失の減少は緩やかです。(252頁)
パーティーを例に取れば、楽しさなどのパーティーを開くことで得られる利得は近づけば近づくほど急激に高く感じられるはずです。他方、面倒くささなどの損失は、双曲割引理論によれば利得ほど急激に増加しません。そのため、本来期待される利得のほとんどが割り引かれているはずの過去に利得が上回っていると判断した場合、損失より利得の上昇率の方が高いので、パーティーが近づくほどますます多くの利得を得られると見なされるようになり、パーティーが面倒くさいから止めようと思うはずはないことになります。
では、山形氏が間違っているかというと、これは微妙なところです。というのは、エインズリーが考える報酬は、かなり独特だからです。たとえば、エインズリーは、痛みを一時的選好を引き起こすものだと主張します。普通に考えれば、痛みは忌避されるものであり、損失だと見なされます。しかし彼は、痛みは鮮烈に記憶に残り、関心を強く引きつけるので、一時的選好を引き起こす感情であり報酬と見なすことができると考えるのです。この辺りの論理は、私はまだ十分理解していないので何とも言えませんが*1、どうもエインズリーは報酬を、人の関心を引きつけたり、行動を引き起こしやすい感情だと見なしているようです。
パーティーが近づいたとき感じる面倒くささなどが損失ではなく、報酬だと考えることは、エインズリー的な考えによれば、可能ではないかと思います。何故なら、面倒くささというのは、非常に強く人間の行動に影響を及ぼす感情だからです。山形さんの擁護の論拠は、このようなものだと考えられます。
私には、どちらの考えが正しいのかを判断する能力は全くありませんが、エインズリーが通常損失だと見なされる感情も報酬に含めた場合、ではエインズリーの説における損失とは果たして何かということが問題になるだろうと思います。私は本の内容を隅々まで覚えているわけではないので単なる記憶違いかも知れませんが、エインズリーは、本の中で報酬と損失の割引率が違うことについて言及していなかったように記憶しています。マリッジ・ブルー問題と双曲割引理論との関係を考える場合、この問題をクリアする必要はあるのではないかと、素人考えでは思います。
もう一つの批判は、ルービンスタインによる実験では、類似性による選択が行われ、双曲割引説と合わない選好が生じたというものです。これに対し、山形氏は、例外的な事例が起こる余地があっても、実験で繰り返し確かめられている双曲割引全てを否定するほどのものではないと述べるにとどまっています。ただ、ルービンスタインの批判は、双曲割引を全否定するというよりは、無批判的に受け入れられ、現実妥当性が論じられないままだとマズイという部分に力点があるように思います。(『行動経済学』238頁)
また、友野氏は、山形氏が紹介した以外にも、非常に様々な批判を紹介しています。それについては、また後でご紹介しようと思います。
- 作者: ジョージ・エインズリー,山形浩生
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2006/08/30
- メディア: 単行本
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- 作者: 友野典男
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/05/17
- メディア: 新書
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*1:第4章でこの問題が扱われているので、間違っていたらぜひ教えていただければと思います。