ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

旅の途中

木曜日:Stadtarchiv Soest. Abt. A Nr. 4018. Türkensteuerregister 1532. ゾースト市ではなく、Soest Börde (Oberbörde und Niederbörde)の記録。当てが外れる。妻の有無は記述されておらず、すなわちKopfsteuer ではなかった。ゾースト市の最古のSchatzungsregister は、21. Mai. 1566 (Nr. 4150).史料が存在しないので、 16世紀のゾースト市に関する社会構造分析はほぼ皆無。

1304年創建、ヴェストファーレン最古の宿屋Pigrim Haus で食事。さすがのサービスと味に大満足。ゾースト最高。

夜は電車の本数が減り不便。駅にヤンキー中高生が出没。観光客はゾーストは中世の雰囲気が残る美しい街だと思うが、住んでいる人間にとっては、ただの刺激と情報の少ない田舎町に過ぎないのだろうかと彼らを見て思う。都会と田舎の選択可能性の大きさの格差。

金曜日:司教都市Hildesheim. Dom とSt. Michael は、ユネスコ世界文化遺産に選ばれている。

ツーリストインフォメーションで市立文書館についてお姉さんに尋ねていると、あるご老人に絡まれる。聞けば、文書館に通ってらっしゃると言う。半ば無理矢理市庁舎前の広場の建物の様々な浮き彫りや壁画の説明をしてくれるが全部デタラメ。本人曰く、歴史は事実ではなく想像力が必要だから、それをご教授して下さったそうだ。寂しいご老人のお相手をさせていただき、世の中のお役に立ったと思えば、文書館での仕事時間を削(らされ)た甲斐があったというもの。

Stadtsrchiv Hildesheim (ヒルデスハイム市立文書館)で、Schoßregister を拝見。Knecht やMagd の記述はない。代わりに頻出するのは、puerj とmater。その多くは租税免除される。それほど多くの孤児がいたのか?租税記録の残存状況は例を見ないほど良好だが、租税記録から見て取れる人々の割合はかなり少ない。異なった都市の租税記録間の比較の問題は深刻。

Dom は、例によって二次大戦で大部分が破壊され、昔と比べると見る影もない姿に。Paderborn の大聖堂の方が壮麗。中庭の片隅にある教会はモダン。

寒い。パン屋でメレンゲとクッキーを食べるが激ウマ。晩飯は、市庁舎広場のカフェでボロネーゼ。トマトは新鮮だが、何故か冷たい。

Conditorei の経営するホテルに宿泊。着々と事業を拡大する優良企業のよう。場所は旧Neustadtのマルクト沿い。周りにはケバブ屋などトルコ系の店が幾つもあり、下町感があふれる。下町は、何百年立っても下町。

土曜日:Hildesheim。朝市が立つ。Konditorei Timphaus は朝から大繁盛。市の売り子さんが、鼻を赤くして店のトイレに駆け込むことも。寒いのだ。

Nestadt の教会St. Lamberti。いかにもドイツなゴシック教会。ミュンスターの同名ゴシック教会よりも大きい。ヒルデスハイムやパダボーンを見ると、ミュンスターは司教都市としては、かなり格下だと感じざるを得ない。

南の市街地には、木骨家屋が多く残る。また、昔の土塁と堀の後が現在も残る。かつての防御施設の巨大さを感じさせられる。南のはしにあるSt. Godehard は、大聖堂にも匹敵するかという大きさで、祭壇天井にはいかにも初期中世という感じの色鮮やかな天井画、壁画が描かれている。

旧市街の南から西に掛けて、堀が残っている。旧市街の西北部は小高い丘になっており、辺りを一望できる。丘の上にあるSt. Michaelis も世界遺産。実はルター派教会。現在工事中だが、案内つきで中を見れた。現在暖房を入れるための工事をしているため、床は全て引き剥がされ、あちこち穴だらけで、見るも無惨な姿になっている。考古学的には色々な発見があるらしい。

マルクトにあるKnochenhauer-Amthaus を利用したカフェで一休み。この建物は、かなり豪華。Stadt Museum は何故か休み。がっかり。

Hannover 行きの電車は、凄まじい混雑で満員電車。サッカーの試合があるらしい。ハノーファーに付くと、街中で毛糸のマフラーをして、ユニフォ−ムを着て、ビールを持って、大声で歌っている集団が歩き回っている。サッカーファンは、ドイツで最も質の悪い人々。

ハノーファーは大都会。しかし、旧市街の教会は、余りのしょぼさに唖然とするほど。中世にハノーファーはWesel やDuisburg と同じかそれより小さい中規模都市だったため。ブランデンブルクブラウンシュバイクリューネブルク選帝候のResidenzstadt として発展したハノーファーは、デュッセルドルフなどと並ぶ典型的な宮廷都市。

歴史博物館は非常に充実。北ドイツの都市の歴史博物館は全般的に充実しているような気がする。

特別展、世界の少女。アフリカの割礼、アンデスの幼女を含める若い女性に対する慢性的性的暴力など、途上国の少女の不幸を紹介。先進国万歳?死に対する態度。元々埋葬は共同的なものだったが、そのうち個人化され、死は目に付かないところに隠されるようになる。また、埋葬が企業に外注される。

中世の展示は少なく、近世以降の展示が多いのは、ハノーファーが近世に発展したから。王侯貴族の話ばかり。そういえば、現在のイギリス王家も、元をたどればハノーファーの領邦君主。

農家に関する展示。地方による家の構造や民俗衣装の違い。

郊外にある、Herrenhäuser Garten は、広大なバロック庭園。ドイツのバロック庭園はミュンスターでも、パダボーンでも、ハイデルベルクでもすでに改造されて昔の面影をとどめていないが、ハノーファーではオリジナルが残っているよう。これほど見事なバロック庭園は初めて見た。ほぼ理想型ではないか。

ハノーファーの象徴とも言える20世紀初頭に建てられた新市庁舎は、何故か近くにバスの停留所も地下鉄の駅もない不便なところにある。近くの小川沿いにハンナ・アレント通りがある。

Minden 行き。電車の中には酔っぱらったサッカーファンがおり、ずっと騒いでいる。禁煙なのにタバコを吸っているし、やりたい放題。サッカーファンがますます嫌いになる。

Minden についた頃は真っ暗。駅から中心部に行く道が分からない。適当に歩いていると道に迷う。雪がチラチラと降り寒い。しばらく歩き、道端にいた若者に中心部にどうやって行くかを聞くと、ずいぶん掛かるという。彼は多分トルコ出身。ミンデンは小さいが危ないという。ネオナチもいるらしい。いきなり絡まれることもあるそうだし、一度ナイフで刺されたらしいが、多分それは彼がトルコ人であることと無関係では無かろうと思う。友達の車が来るので送ってくれると言うが、なかなか来ないのでタクシーを呼んでくれる。親切すぎるので疑いもあったが、ただ親切なだけだった。私は、その類の親切に慣れていない。

タクシーの運転手が、安いホテルに連れていってくれる。料金を降りるときに払うのではなく、部屋が空いているのを確かめた時、ホテルの中で料金を請求される。胡散臭いが、ちょろまかしたとしてもせいぜい2ユーロ程度なので、ホテルの紹介料だと思って言い値を払う。

ホテルは少し郊外にある。一回は飲み屋、店主はパキスタン人。お客は胡散臭い男性二人だけ。一晩26ユーロ、朝食つきで30ユーロ。部屋は広いが、余り細かいところまでは行き届いていないと言えばいない。しかし、値段を考えれば超お得。空腹なので食べるものはないかとたずねると、スープなら出せると言う。値段を聞かずに頼んだので、ぼったくられないかと思ったが、普通に安かった。

トルコ人や、調子の良いタクシーのドライバー、パキスタン人を、私はドイツ人の折り目正しい人々と比べ、胡散臭い、信用できない人々だと無意識的に感じている。そのようなランク分けを、人はどのように自明のものとしていくのだろうか。

日曜日:朝食時、他に客は二人しかおらず、しかもかなり胡散臭い感じの中年男性だった。自称イベントプロデューサーの男性は、ひっきりなしに店主に話しかけ、終いには絡みはじめた。自分は神は信じないが、神の代わりに人に楽しみを提供するのだという。それに対し、ムスリムの店主は、神を擁護するようなことを言う。男性がなおも神を否定するようなことを言うので、朝っぱらからかなりの大激論になった。その中で、店主は、現在宗教的な戦争なんてない、石油など経済的な利益で戦っているだけだと主張していた。また、メディアに載っている記事は嘘ばかりだと、メディアに対する不信感を露わにしていたことは印象的だった。

聞けば店主はすでに70年代にドイツに来ていたという。見たところまだせいぜい50才くらいのようなので、かなり若い時期にドイツに来たことになる。人に歴史あり。

ミンデン郊外南には、ベルリンとドルトムントを繋ぐ運河が流れている、ミンデンはヴェーゼル川沿いの街で、Bremen とHameln を繋ぐ交通の要衝にある。

街中には木骨家屋が多く残るが空き家も多く、Ratskeller も潰れてしまっている。景気が非常に悪そう。景気が悪いとネオナチが増える。治安も悪くなる。

Dom の外見は、ヒルデスハイムのDom に似ている。しかし、大きさは一回り小さい。11時からのDom のミサに参加する。この日は幼稚園の子供が招かれ、歌を歌ったり、劇をしたりしていたが、全く統率が取れておらず、全くできていなかったので、ドイツでは余り子供に無理矢理何かを身につけさせたりはしないのだろうと思った。ミサは、多分司教でなく、司祭が行っていた。Spende を求めに来た少女は大変な美少女。

晴れたり、雪になったり、天気が無茶苦茶。

Mindener Museum。古い家屋を使った博物館。展示は系統立っていないが非常に充実。雪の中しばらく中庭に閉じこめられる。ミンデンも、Wesel 同様プロイセン軍の軍隊が駐屯した軍事都市。通常の都市と異なり19世紀にZitadele が作られるなど、防備が大幅増強。終いには、Bahnhofbefestigung、つまり駅の周りを要塞化するところまで行く。ミンデン以外にあるのか?

Museum Cafe で、ミルクコーヒーとグラーシュスープ、鮭の薫製とReibekuchen、ミカン入りクリームチーズケーキを食べる。クリームチーズケーキが絶品。

早めにミュンスターに帰る。やること山積。旅行中にKarl Josef Uthmann, Sozialstruktur und Vermögensbildung im Hildesheim des 15. und 16. Jahrhunderts, Bremen, 1957. を読み終える。都市の類型と階層分化、インフレと経済成長、商業と手工業ギルドでの富の増大と階層分化の違いを検討した興味深い研究。

月曜日:Stollberg-Rillinger 先生とお別れの挨拶。先学期の発表で、私たちが、他のドイツ人学生よりも史料が読めていたので驚いたと言われる。まだ、こちらでは日本人が中近世のドイツ語を読めるというだけで驚くが、彼らは、日本人研究者のレベルを御存知ないということである。今度は、ドイツ人と同等もしくはそれ以上の質の論文を書いて、もっと高いレベルで驚いていただくことが私の義務であり、また恩返しであると考える。

先生にゼミで聞いた終末論と商業や金融への恐怖の結びつきについて聞いたが、やはり先生個人の仮説のようだった。贖宥状は金銭により罪からの赦しを計量的に買う行為であり、それを司るのは教皇で、教皇はアンチキリストであると見なされていた、またルターやメランヒトンたちは投機家や大商人を批判していたことから、両者の結びつきを推測したとのこと。論としては弱いが、この両者の関係の追及は非常に興味深い。

腹減ったので飯を喰おうと街にであると、偶然友人と会い、思わず長い間立ち話。晴れていたと思えば、雪がちらつくなど無茶苦茶な天気。散々立ち話をした後、冷えた身体を暖めにマクドナルドに入ってだべっていると、さらに長話しすぎて、用事をし損なう。さすがに旅から旅で疲れている。