ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

ピーター・バーク『歴史学と社会理論』第五章レジュメ


読書会で、レジュメを切ったので、載せておきます。


ピーター・バーク『歴史学と社会理論』、佐藤公彦訳、慶應義塾大学出版会

第五章 社会理論と社会変化

  • 機能主義から構造主義までの特定のアプローチは、変化を説明することに失敗しているという批判を受けている。
  • ?では、どのように変化を説明したらよいのだろうか?
  • 反対方向から二つのやり方でアプローチする
  1. 一般から個別へ:モデルがいかに歴史的現実と一致しないか、そしてモデルはいかなる面において現実に合わせられ、あるいは修正される必要があるかの検討
  2. 個別から一般へ:具体的な社会における変化の過程についての説明を、一般モデル構築の助けになるように提示する(「理論探求の六つのモノグラフ」)
  • 「社会変化」と言う語の意味 
  • 狭義:社会構造の変化 広義:政治的構成や経済、文化を含む
  • 社会変化のモデルと理論の類型
  1. 線形(ユダヤキリスト教の歴史哲学、近代化モデル)−循環的(シュペングラー、トインビー、コンドラチェフジャグラー、パレート)歴史家は循環理論を余り活用してこなかった。
  2. 内因論:構造内に変動の要因を見出す(成長、進化、衰え)−外因論:構造の環境に変化の要因を見出す(借用、伝播、受容)
  • しかし、以降、二つの主要モデルである対立モデル(マルクス)−進化モデル(スペンサー)について詳しく述べる。


*スペンサーモデル(進化モデル)

  • 「内生的」に、徐々に進み、次第に増大していく社会進化に強調するモデル
  • 「構造分化」社会進化の内生的な過程で、単純で、分化しない、非公式なものから、複雑で、分化した、正式なものへの移行が生じる。
  • デュルケーム:同類性に基づく、単純で機械的な結びつき−労働分業の増大による有機的な結びつきへと変化
  • ヴェーバー:世界史は、官僚制や資本主義のような、より複雑で非人格的な組織へと不可逆的に進行
  • デュルケームヴェーバーの考えを統合すると、「近代化モデル」が生じる。変化は内生的に生じ、外部の世界は適応への刺激を与える、限定的な役割しか果たさない。
  • 伝統社会と近代社会の違い
  1. 伝統社会:a) 社会的階層制の基礎は「帰属」で、社会的移動性低 b) 身分社会 c) 基本単位が「共同社会」 (Gemeinschaft)−近代社会:a) 社会的階層制の基礎は「達成」で、社会的移動高 b) 階級社会で、機会はより平等 c) 基本単位は大きな非人格的な「社会」(Gesellschaft) 、経済的には「市場」、政治的には「官僚制」
  2. 伝統社会では変化は緩慢で、人々変化に敵対的か、変化に気付かない。近代社会では、変化が早く、恒常的で、変化に意識的であり、「改良」「進歩」という名目で正当化する。新しいことが非難される状況から、推奨される状況になり、十八世紀以降、未来は計画とそれによる発展のための空間と見なされるようになった。
  3. 伝統社会:宗教的、魔術的、非合理的−近代社会:世俗的、合理的、科学的
  • ヴェーバーは、「世界の魔術からの解放」と、「世界の官僚制化」が、「世俗内禁欲主義」と共に、近代化過程の中心的特質と考えた。
  • 経済:静態的な前工業社会から、成長が常態である工業社会へ
  • 政治:政治参加の拡大
  • 地理学:特定の機能に結びつけられた空間から、多様な目的に使える抽象的な空間へ
  • 社会心理学:自己統制の増大、他人との共感能力による社会的性格の登場
  • 進化論(近代化)モデルの長所
  1. 社会進化を競争による自然淘汰とのアナロジーで捉える考え方は、軍事史と経済史のかなりの部分に上手く当てはまる。
  2. 地方史研究において、他の地方の近代化の過程との比較が可能となるため、より広い視野から、事象の構造を捉えられる。例:1840年代大飢饉以降のアイルランド社会研究
  • 応用例:ニッパーダイ、ヴェーラーの十八世紀後半以降のドイツ社会の変化を近代化モデルを用いて論じる。ヴェーラーは、プロイセンやドイツ諸州の諸改革は、フランス革命とナポレオンの脅威に対応しようとしたためという「防衛的近代化」理論で説明。
  • 進化論(近代化)モデルの短所

1.社会変化の方向

  • 歴史は一方通行ではない。後退:ローマ帝国衰退期。
  • 「近代」の意味が変化している。産業革命以前の歴史家ランケやブルクハルトは、国家建設や個人主義を近代化の指標と考え、工業化について何も語っていない。近代性は変化し続けているので、「近代初期 early modern」や「ポスト近代」なども時代区分も生み出された。

2.社会変化の解釈

  • 変化は本質的に社会システムに対して内的なもので、潜在的なものが展開するという想定に反し、多くの事例において、発展は複数の文化の出会いによって引き起こされている。
  • 社会理論家は余り扱わないが、征服は劇的に社会を変化させた。例:ノルマン征服、メキシコ、ペルーのスペイン人による征服
  • 伝染病。黒死病のアジアからヨーロッパ侵入、スペイン人による疫病による南米での大量死

3.社会変化の仕組み

  • スペンサーモデルは、変化がいかに起こったかという変化の仕組みを説明しない。
  • あたかも自動的に諸段階が連続するかのような「エスカレーターモデル」に対し、ガーシェンクロンは、ドイツやロシアのような後発国では、利益追求よりも、国家主導であり、イギリスの工業化の過程とは大きく異なっていたと指摘。ヤン・ロメインは、革新をする社会は、前の世代では遅れていたという「後発の有利性」を指摘。*1
  • リグレイは、十八世紀半ばまでのオランダの農村地区では、工業化なしで、構造分化が起き、多くの人々が読み書きができるなど近代化していたが、十九世紀イングランド北部では、近代化が起こらずに、工業化が起こったと指摘。
  • これらは、近代化は工業化の結果生じるとは限らないことを示す。そのため、工業化の結果だけでなく、異なった社会・文化的構造と経済成長との間の適合関係や、両立性を探すべき。
  • 社会変化は、単線的でなく、複線的。


マルクスモデル(対立モデル)

  • 経済システム(生産様式)の上に乗り、危機と革命と非連続な変化へと導く内部の対立を含んだ諸社会の連続についてのモデル
  • マルクスは、社会形態の連続的な変化を想定し、封建制と資本主義を対立的に考え、生産様式の内部の原動力という内生的要因で社会変化を説明する。
  • 他方、マルクスモデルは、スペンサーモデルに加えられた三つの批判に対応可能
  1. 「再封建化」「再版農奴制」「低開発の開発」など、変化を一方向だけとは考えない。
  2. マルクスが、インドにおける征服者の役割を、ウォーラーステインが国際的な経済システムの役割を強調したように、一つの社会と他の社会の関係という、外因的な変化の理由付けも行う。
  3. 対立と結果、つまりブルジョアが生産能力を解き放ち、プロレタリアートを生むことで対立が生じ、自らの墓穴を掘るというかたちで、社会変化の仕組みを説明する。マルクスは、部族制−奴隷制封建制−資本主義−社会主義という単線的発展は、ヨーロッパのみに当てはまると考えた。そのため、複線的な社会変化を想定していた。また、漸進的で、内生的な変化だけでなく、古い構造を突然破壊する革命が強調された。


*第三の途は?

  • 幾つかの点では、スペンサーモデルとマルクスモデルは相互補完的。
  • このどちらのモデルも、工業化とその結果を説明するために発展させられたものなので、十八世紀中期以前の変化についての説明は不十分。スペンサーモデルの「伝統社会」も、マルクスモデルの「封建社会」も、近代でない、資本主義でないという消極的な概念で、現実的な分析には役に立たない。
  • 両者を超えるような社会変化についてのモデルや理論という第三の途。1980年代の歴社会学リバイバルアンソニー・ギデンズマイケル・マン、チャールズ・ティリー。彼ら三人は皆、政治と戦争を強調している。近代初期を研究している歴史学者も、彼らと同意見。16、17世紀のハプスブルク朝、ブルボン朝時代の政治的中央集権化は、対外政策、つまり戦争の必要の副産物だった。この時期軍事革命が起こり、軍事費が増大、臣民からより多くの税が徴収されるようになった。
  • 「西洋の勃興」問題に対する関心の集中。ヨーロッパがいかに経済的軍事的競争者を追い越したか、そしてその後世界の残りの地域にどのように影響したかを説明する。
  • ジョーンズ:ヨーロッパの地質学的、気候学的、地形学的な多様性により、自然災害に対するリスク分散ができた。
  • ジョン・ホール:ヨーロッパでは、政府が商人の交易に過度の干渉をせず、なおかつ商業社会を成り立たせる秩序を提供するなど、商業における国家の役割が丁度良かった。


*理論探求の六つのモノグラフ

  • 歴史家には、社会学における社会変化についてのモデルを不十分だと思う者も多く、彼らは、借り物ではなく、独自に理論を構築している。

1.ノルベルト・エリアス『文明化の過程』

  • 彼は、パーソンズ同様、ヴェーバーフロイトデュルケームの思想の総合を行おうとした。
  • 他方彼は、中世後期の社会生活に、詳細な検討を加えている。彼は、テーブルマナーなどで、ルネサンス期に礼儀に大きな変化が生じ、その変化を、文明、つまり不快感と羞恥心という情感の境界の移動だと意味づける。15、16世紀に唾を床に吐くなどの行為が非難されるようになったことは、「西洋文明の社会的発生」と呼ぶものを例証している。
  • エリアスの理論は、近代化を説明する一般理論を目指していたが、前で受けたような反論は受けにくい。
  • a) 理論が複線的。社会の構造変化の二つの主方向、つまりより一層の多様性と統合化へと向かう傾向と、多様化と統合化の程度の、より一層の減少という逆の方向を区別。
  • b) 変化の仕組みを説明。自己抑制(社会的統合)は、中央集権化された国家と結びついた権力独占の思いがけない結果。また、絶対主義国家の興隆は、中世における小国家の覇権競争の意図せざる結果。
  • しかし、エリアスは自分の理論を、ヨーロッパ史のみから例証しているので、他の地域で、同じ様な文明化の過程が確認されるかどうかは不明。
  • また、羞恥心や自己抑制を専ら文明化の基準とした場合、文明化されていない社会はほとんど存在しないことになり、また、羞恥心や自己抑制の過多を比較し、判定することは不可能である。

2.ミシェル・フーコー『監獄の誕生』

  • 1650年から1800年の間に、懲罰理論が懲罰から抑止へ、懲罰の実施が見世物から監視へと移行した。この時期、監獄、兵営、工場、学校で、規律社会が生まれた。
  • 社会の変化は、文明化、進歩とは見なされない。抑圧様式が、旧体制における肉体的抑圧から、近代社会における心理的抑圧に、「置き換えられた」だけ。
  • ただし、フーコーは、このような変化が、いかに生じたかを説明していない。
  • バークの考えでは、フーコーの研究の最大の功績は、従来のように、社会の変化を、お気楽に進歩と考えられなくなったという、批判の部分。

3.フェルナン・ブローデル『地中海』

  • 彼の考えの中心は、歴史的変化は、違ったスピードで起こること。
  • a) 地理学的歴史の時間。変化は非常に緩慢で、循環が支配する。「構造的歴史」
  • b) 経済システム、国家、社会、文明の時間。ゆっくりしているが、感知できる。「景況的歴史」
  • c) 出来事と個人についての早く動く時間。伝統的な物語の歴史。「事件史」
  • 彼は、16世紀後半は地中海の東部と西部を問わず、貧富の差が拡大し、社会は二極分化したと考える。この点では、彼はマルクスに近いが、彼が進歩ではなく、拡張の局面と収縮の局面の交換という循環を重視する点で、マルクスとは大きく異なる。この時期、商人はしばしば貿易を止め、土地を求め、貴族になるなど、近代的な要素を捨て去った。そのため、彼の理論は、投資家と不労所得生活者の交代を含む、パレートのエリート周流モデルの例証とも考えられる。
  • 彼は、事件に構造を破壊する力があるとは考えなかったので、その理論は余りにも決定論過ぎる。

4.エマニュエル・ルロワ・ラデュリ

  • 社会諸集団と、自然環境の関係を重視。「生態学歴史学
  • 社会変化の原動力を人口だと見なすので、人口統計学を重視する。
  • ラングドックにおける15世紀末から18世紀まで続いた大きな農業の循環。拡張局面で人口爆発が生じ、それに続き土地の開墾、農地の細分化、価格上昇と、地代と労賃を犠牲にした「利潤の勝利」つまり企業家の勝利が続いた。しかし、17世紀になると農業生産力が底を打ち、食糧生産に対し人口が多すぎるので、食糧不足になり、飢餓、疫病、移民、晩婚が生じ、人口成長が止まる。利潤は地代に負かされ、投資家は不労所得者である地主に打ち負かされた。
  • 「文化」をモデルに包含。この社会変化において、習慣や生活様式、心性が大きな影響を与えた。例:ラングドックでは分割相続制を採っていたので、人口増加は、土地の細分化に拍車を掛けた。
  • 「事件史」をモデルに包含。どのように同時代の人々が、社会の変化を知覚し、どのように反応したかを示すため、社会的対立と抵抗を描写。例:1580年のカーニバルで、手工業者や農民が、街のエリートは貧乏人を犠牲にして金持ちになったと叫んで回った。
  • 最も重要な示唆は、前工業化社会では、社会変化の最も重要な要因は、人口の増大と減少だと言うこと。

5.ナタン・ワシュテル

  • 1530年から80年のスペインによる征服後のペルー。征服によって引き起こされた危機を扱う。
  • 「構造解体」征服によって、伝統的な社会的システムの様々な部分の結びつきが切断された。個々の伝統的な制度と習慣が征服を切り抜けても、古い構造はばらばらになった。例:伝統的宗教は、非公式的な秘密のカルトになった。宣教師は、社会文化的な変革、あるいは再構築を行った。
  • 「文化変容」ある文化は支配的で、他方の文化が従属的な状況の下での文化接触。伝統を守るために、逆に変化が生じる。例:スペイン人に対抗するため、馬を受け入れる。また、表面的にスペイン文化を受け入れた。
  • 「敗者の想像力」文化の変化は、従属させられた者が、支配文化について持つイメージにも左右される。
  • 文化変容のモデルは、西洋社会研究にも用いられる。例:18世紀初頭のセヴァンのプロテスタント反乱、16世紀末の魔女狩り。ただし、ヨーロッパの場合、たとえば聖職者と平民は、全く違う文化に属していたわけではなかったので、留保が必要。

6.マーシャル・サーリンズ

  • 文化変容モデルの一変種。
  • クックはハワイ訪問の際歓迎され、崇拝され、その後殺された。これは、ハワイ人が、クックを彼らの文化的伝統に則り認識し、それに沿って行動したから。
  • クックとの接触によって、ハワイの文化は、根本的かつ決定的に変わった。ヨーロッパ人とハワイ人の関係が、首長と平民の関係に投射され、両者の緊張が増大。
  • 文化の接触の際、変化を阻止しようとする、あるいは順応しようとする全ての意識的な試みは、他の変化を引き起こす。全ての文化的再生産は、変質を含む。そのため、文化的カテゴリーが、世界を解釈するために使われるとき、そのカテゴリーは常に危機にある。
  • ハワイの例が、一般化できるかはまだ不明。


*結論

  • 古典的な三つの二項対立に対し、論評を加える。

1.持続と変化

  • 変化の概念は、必ず持続の概念を伴う。持続は、子供のしつけによる文化的再生産などにより可能となる。
  • 「世代」ある年齢の者達が、ある特定の世界観やメンタリティーを持つ。例:スペイン内戦をどの年齢で経験したかによって、政治意識が違う。
  • 「循環」ラデュリによる、経済的、人口統計学的な循環運動による持続。

2.内的要因と外的要因

  • 循環は、外的要因の侵入によって破られる。しかし、外的要因が一方的に変化を引き起こすのではなく、内的要因と外的要因の関係や適合性によって社会変化が生じる。ワシュテル、サーリンズのモデル。
  • アフリカ学者。変化に抵抗するのは、高度に統合された文化で、変化を受容するのは統合性の低い社会。
  • 外部からの影響の受け入れる伝統は、時間をかけて形成されるのかもしれない。例:日本

3.構造と出来事

  • 既に見てきたように、出来事と構造化の関係には、色々な考え方がある。ブロ−デル:構造重視、出来事軽視、ラデュリ:暴動と反乱は構造を反映、ワシュテルとサーリンズは出来事より重視、アーサー・マーウィックやユルゲン・コッカは、戦争や革命のような危機が、社会変化を加速させると見なした。
  • 上述の6つの研究では、個人や集団の決定が、社会の発展にどのように影響を与えるか議論されていないので、この点についてもっと考える必要がある。例:日本では、明治政府は、社会を管理したのではないか。
  • 個人、集団、出来事が社会変化の過程において重要な位置を占めるなら、分析の内容と共に、その形式も修正しなければならないだろう。構造分析は余りに静態的で、伝統的な歴史叙述は、構造に対処できない。ギアーツの「厚い記述」、つまり行為や出来事を吟味し、象徴体系を見出し、記述することを参考にできるのではないか。新しい記述の形式に、同じ出来事を多元的な観点で描いたり、微視的な物語を描いたりすることが含まれる。
  • ここまでの検討で、経験主義者と理論家は、二つの集団ではなく、スペクトルの両端だと言うことが明らかになる。歴史家をはじめ、隣接したディシプリンからの概念の借用を行う。
  • 逆に、歴史家は、人間の経験と制度の複雑さ多様性を思い出させる。単純化は理論において不可欠なことだが、多様性は、理論は決して過去に当てはめられないことを示している。
  • 他方、理論は、歴史家が彼らの時代について問うべき新たな質問を示唆し、あるいは良く知られた問題への新たな答えを示唆する。
  • 理論も色々あるので、競合する諸理論の中から、何を選択するかが問題となる。
  • 「新しい思想がどこからやって来ようとも、それに開かれてあること、そして、これらを自分自身の目的に適応させることができ、それらが有効であるかどうかをテストする方法を見つけだすことができること、これが良い歴史家であることの、また同じく良い理論家であることの指標だといえるだろう。」

*1:革新を続ける社会では、その特的に革新の中で投資を極めて多くする傾向があるが、利益が逓減するメカニズムが始まると適応できなくなる。そのため、先駆者は、いずれ後発者に追いつかれると考えた。