ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

近世寛容論における本質的なことがらにおける一致とそれ以外のことがらの容認


H. カメン著、成瀬治訳『寛容思想の系譜』平凡社、1970年


寛容思想について扱った古い文献だが、大変勉強になる。

この本の中で、エラスムス以降の寛容論で、少数の本質的なことがらで一致していれば、それ以外の様々な教義や慣行の不一致は不問にすることで、宗教的な平和を実現しようという考えが度々出てきていたので、気がついた思想家を適当に拾ってみた。

エラスムスは、平和主義的な立場を取っており、「われわれの宗教の要約は平和と心の一致であります」とパレルモ司教への手紙で述べていたそうだ。この平和を実現するためには、できるかぎり宗教的な基本信条を少なくし、多くのことを自由な討議に委ねるべきだと考えていた。(45-58頁)

このような少数の基本信条のみが一致していれば、それ以外の教えについては一致しなくてもかまわない、多少の教義の違いは宗教的な一致の妨げにならないという考えは、その後も様々な思想家によって主張されていったようだ。

イタリア出身の反三位一体論者ヤコブ・アコンティウスは、バーゼルで『悪魔の策略 Satanae Stratagemata』を出版した。カメンによれば、この本は16世紀に書かれた寛容論で最も影響力が大きかったものの一つに当たるそうだ。彼は、世俗の権力者が教会問題で合法的な権威を持つことを認めたが、暴力を用いる権能を持っていることは否定した。彼は、いくつかの基本的信条で一致すれば、宗教上の反目を減少させることが可能だと見なした。ここでもエラスムス的な「本質的なことがらにおける一致」という論点が出されている。この本は、イングランドとオランダで広く読まれたそうだ。(111-113頁)

ネーデルラント出身のカトリックエラスムス主義者カッサンデルもまた、1561年の主著で、教会の頭としてのキリストを信ずる点で全てのキリスト教徒が一致する限り、それ以外のあらゆる際は非本質的な者として、愛の精神において寛容されるべきだ訴えた。(131-133頁)

1579年にポーランドに赴いた反三位一体論者ソッツィーニも、1584年の友人への手紙で、イエスキリストの教えの声が聞かれる全ての教会を真のキリストの教会と認め、非難や軽蔑をしないと述べた。(165頁)

ソッツィーニの非ドグマ的な考え方は、ポーランドを追放され、東プロイセンやオランダに亡命したソッツィーニ主義者のザムエル・プルツィプコスキーも、1628年の『教会の平和と一致について』で寛容の実行をドグマの不在に位置づけた。彼も、重要なのは宗教の基本的な事柄の一致だけで、神学的な定式は道徳的生活を送ることほど重要ではないと見なした。(168頁)

ダンツィヒ出身の反三位一体論者ダニエル・ツヴィカーも、1658年アムステルダムで出版した『平和の最たるもの』で、皆キリストを信じる限りにおいて、今日のキリスト教諸派は全ての例外なくキリストの教会だと見なした。(169-170頁)

人文主義者のギヨーム・ポステルも、人間の過ちを裁くことは神のみに可能であるため、非本質的なことでの意見の違いが神の精査に委ねられてしかるべきであり、カトリック、異端者、ユダヤ人、異教徒、イスラム教徒も認められるべきだと見なした。(177-178頁)

イングランドでも、アルミニウス主義の影響を受けた公教会派のウィリアム・チリングワースは、教義の墨守に反対し、いわゆる基本的信条をかかげることさえ拒絶した。彼はプロテスタントにとって基本的なのは聖書だけで、他の点でどれだけ不一致があっても構わないと見なした。そのため、正しく理性を用いるキリスト教徒は、カトリックであれ救われると見なした。(220頁)

敬虔主義者は教派の違いよりも霊的な交わりを重視し、全てのキリスト教会の統一を促進しようとした。ゲルハルト・テルステーゲンは、教派内部でも教派間でも、意見や慣行が違っても、魂は最も高次の聖化に達し神と一つになることができると確信していた。(303頁)

ずいぶん昔の研究なので、その後の寛容論研究を読む必要がある。宗派による分裂や宥和の問題に関する近年の研究では、以下の本が重要だとされているようだ。


Benjamin Kaplan, Divided by Faith: Religious Conflict and the Practice of Toleration in Early Modern Europe, 2010