ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

デュースブルクで凍えそうになる。

週末は文書館が閉まっているし、もう時間がないので、なるべく沢山のドイツの都市を回りたいと思っています。というわけで、今日は、ルール工業地帯の工業都市Duisburg に行ってきました。*1

Duisburg は、Magdeburg からSoest、Dortmund を抜けて、ドイツの東西を結んだ大通商路Hellweg の終着地点という通商の要所でした。Hellweg はDuisburg でライン川に繋がり、低地地方やケルンへと道が続いていったわけです。

現在のデュースブルクは、ルール工業地帯の大工業都市になっています。ルール工業地帯と言えば、ブルーカラーが多く、労働組合が強く、ついでに失業率も高いという、ミュンスターとは全然違うところです。私は、いつも電車で通り抜けるだけなので、今回Hellweg の終着地点がどんなところなのか、確かめに行ってきました。

しかし、今日は天気が良かったのですが、気温は日中でも氷点下という寒さで、とても観光どころではありませんでした。外を10分ぐらい歩いていると、余りの寒さに気が遠くなりそうになるような状態なので、街を見て歩く余裕なんてほとんどありませんでした。

とにかくどこに行っても、氷だらけです。道は凍結しているし、水たまりは凍っているし、運河ですら凍っていました。噴水も、水が噴出しているにも関わらず水が凍ってしまったので、ほとんど無数のつららの塊のような、凄いことになっていました。水があるところは、ほとんどどこでも凍っているので、氷の世界だと思いながら歩いていました。

デュースブルクは、旧市街に市庁舎と教会がある程度で、あとはほとんど歴史的建造物はなく、日本の街と余り変わらないような外観をしています。元々デュースブルクは、それほど大きな街ではないので、旧市街の市域もそれほど広くなく、現在の市中心部は、近代建築ばかりです。

市庁舎の側には運河があり、港になっています。ミュンスターでもそうですが、港の周りには倉庫や工場があるもので、デュースブルクも例外ではありませんでした。しかし一方で、郊外型のショッピングモールみたいな店や美術館もあり、使わなくなった港×工業×倉庫×郊外型商業施設×文化施設という組み合わせは、見事なまでにミュンスターと共通していました。

私は、Hellweg の情報がないかと歴史博物館に行ってみましたが、中近世の商業に関する展示は残念ながら余りありませんでした。

ただ、売店で面白そうなカタログが売っていました。Von Frandern zum Niederrhein. Wirtschaft und Kultur überwinden Grenzen, Duisburg, 2000. という本です。タイトルの「フランドルから低地ラインへ。経済と文化は境界を越えていく」を見ても分かるように、低地地方と低地ライン地方の結びつきの強さを扱った展示会が行われ、その際に出版されたカタログのようです。

収録されている論文にも興味深いものがありますが、巻末にフルカラーの様々な地図が付いているので、非常に使いやすいです。低地地方からライン川にかけての地域の、領邦君主の領土、あるいは通商路などが一目で分かるのは便利です。

中には1520年までの低地ライン地方のベギンハウスと共同生活兄弟団の住居についての地図もありました。

この充実した内容のカタログが、たった5ユーロですよ!博物館や文書館など、公的機関の出版物は、営利を目的としていないので、破格の値段で買えることが多いですが、今回も安かったです。

あとは、バスに乗って、川沿いの工場やライン川と運河の合流地点などを見てきました。しかし、とにもかくにも、寒くてどうしようもなかったので、寒さ以外のことはほとんど印象に残りませんでした。

*1:ちなみにDuisburg は、デュースブルクと読みます。ケルン一帯のライン地方で使われたRipuarisch では、「i」を母音を伸ばすために使っていました。たとえば、Kleve 公領であり、ケルンと関係の深かったSoest は、初期近世にはSoist と表記されることもありました。