ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

娼館のあった通りベアリヒ

文書館に行くついでに、ケルンの街もそれなりに見てきました。私は、これまできちんとケルンの街を見たことがなかったので、街中の教会を見て回りました。ケルンは、正直言って、ドイツの街の中でも、かなり町歩きするには向かない街です。その理由は、街中にはごく少数の例外を除き、戦後立てられた味気ない近代建築しか建っていないこと、もう一つは都市設計がずさんで、歩道が狭かったり、自転車道が整備されていなかったり、細い通りでも車が走っていることなどです。

また、ワールドカップに備えてなのか分かりませんが、街中の到るところで、工事をやっていたので、著しく歩きにくかったです。また、街中ゴミだらけですし、治安も余り良さそうではないので、歩いていて余り楽しくありません。印象としては、日本の地方都市に似ています。ケルンというと、駅前の大聖堂のイメージしかありませんが、確かに街を歩いてみると、大聖堂しか売りがない街だと思いました。

ただ、ケルンは、さすが古くからの大都市だけあって、教会は、なかなか見事なものが多かったです。ケルンには、ロマネスク様式の教会が多く、しかもかなり独特の形をした、変わった教会が多いです。たとえば、抽廊が円形になっている教会が多いですし、身廊と抽廊の交差部分が、他の部分より一層高くなっている教会もありました。Neumarkt のSt. Aposteln、旧市街西部のSt. Gereon、橋の近くのSt. Maria im Kapitol などには、その大きさ、内部空間の面白さなど、一見の価値はあると思います。

一方、ゴシック教会、バロック教会は少なく、余り存在感がないので、ケルンは古くからの大都市だと感じさせられます。また、何故大聖堂だけが、あれほど飛び抜けて巨大で、壮麗でなければならなかったのか、良く分かりません。もっとも、大聖堂も、ゴシック様式が流行らなくなってから、二つの尖塔は作りかけのまま放置されており、長い間塔がないままの格好悪い姿を晒していたわけで、そこら辺の人々の意識はどうだったのだろうと思います。

さて、私がケルンに抱えていったのは、F. イルジーグラーとA. ラゾッタの『中世のアウトサイダーたち』です。この本に出てくる通りを、見て回ろうと思ったからなのですが、この本では通りの名前の多くが訳してありドイツ語の通りの名前が分からないこと、また通りの名前が中世と現代でかなり変わっていると言うことで、見つからない通りもありました。そのため、放浪者の泊まる旅籠の沢山あったというシュミール通りというのは結局どこか分かりませんでした。おそらく、ライン川の近くの、現在もホテルやレストランが集まっているあたりではないかと思うのですが。

一方、16世紀に市参事会公認の娼館があったベアリヒ(現在の通りの名はAuf dem Berlich)は、すぐに見つかりました。イルジーグラーによれば、ベアリヒにある娼館は、市内でも最もランクの低い娼館で、この娼館で春をひさいでいた娼婦たちは、娼婦の中でも最も侮蔑されていたそうです。また、当然この通りは、多くの娼婦たちが住む、貧民街だったそうです。

現在のベアリヒ通りは、街の目抜き通りに当たるBreite 通りに連なる通りで、現在では市内でも一等地と言って良い場所にあります。写真を参照していただくと分かるとおり、日本のお店もこの通りにあります。当時娼館がどこにあったのかは分かりませんが、かつて貧民街だった痕跡は、現在は全く残っていません。

では、現在娼館がどこにあるのかと言えば、ケルンの街中には無さそうだったので、郊外にあるのだろうと思います。ミュンスターにも街中には、その手の店はありませんが、郊外にあるそうです。日本では街の駅前や中心部に、飲み屋と風俗店の集まる歓楽街があることも多々ありますが、ドイツでは飲み屋通りはともかく、街中に娼館が集まっている様は余り見たことがありません。ハンブルクやフランクフルトなどの例外を除けば、おそらく人目の付かない郊外にあるのだろうと思います。

ドイツでは売春は合法ですので、日本と違い、女性が個人事業者として、客に性的なサービスを売ることは法的には問題がありません。とは言え、ドイツ、というかヨーロッパの娼婦の中には、東欧やロシアから人身売買で連れてこられた女性が非常に多く含まれているそうですし、人身売買でなくとも貧しい外国人が多いようなので(アムステルダムの飾り窓の女性の大半も、おそらく外国人でした)、必ずしもやりたくてやっているわけでもないでしょう。ともかく、今も昔も、貧困、犯罪、売春が結びつくことには、余り変わりがなさそうです。