ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

スイスで婦人参政権はようやく1991年に完全に認められたこと

このあいだ放送したせんだい歴史学カフェで、「いつも誰かのAnniversary year」という2015年から○○年前の話しをするという回があって、私は1915年にベルン市で財産・納税資格が撤廃され普通選挙が実現したという、普通選挙成立までの経過について話した*1
http://sendaihiscafe.tumblr.com/post/118858458249/ustream-44-anniversary-year
踊共二・岩井隆夫編『スイス史研究の新地平 都市・農村・国家』昭和堂、2011年

私はスイスのことを良く知らなかったのだが、スイスの選挙制度について少し文献を読んで意外だったのは、スイスでは婦人参政権が実現するのが凄く遅かったということだ。渡辺久丸『現代スイス憲法の研究』信山社、1999年、491-494頁に婦人参政権についての記述があったが、スイスで連邦レベルでの婦人参政権が認められたのは1971年のことだそうだ。他の欧米諸国ではだいたい20世紀前半で婦人参政権が認められており、日本でも1945年に実現しているが、スイスはそれよりかなり遅かったのだ。

しかも連邦レベルでは1971年に婦人参政権が認められたが、アッペンツェル・インナーローデン邦は連邦裁判所の判決が出るまで邦レベルの婦人参政権を認めておらず、スイス全土で完全に婦人参政権が認められるようになったのは、ようやく1991年のことだったそうだ。まだ四半世紀も経っていないということになる。

スイスでも第一次大戦後の1919年にスイス婦人組織同盟BSFが、連邦議会婦人参政権を導入するよう要求しており、婦人参政権を求める動きがなかったわけではないようだ。また、邦のレベルでは1959年から60年にかけて3邦が連邦に先駆けて婦人参政権を認めていたそうだ。

渡辺久丸さんは、スイスでこれほど婦人参政権実現が遅れた原因として、レフェレンダムと連邦主義の制度を挙げつつも、個人的には国民の意識こそが問われるべきだと考えているそうだ。何故なら、憲法を改正せず、婦人参政権を認めなかったのは国民だったからだ。

スイスでは憲法改正には国民投票で市民の過半数と邦の過半数が必要だそうだが、婦人参政権導入は一度国民投票で否決されている。議会側では既に承認されていた婦人参政権を認める改憲草案は、1959年の国民投票で否決された。市民の69%が否決し、たった3邦しか賛成しなかったそうだ。つまり、投票者である男性市民の大半が、婦人参政権に反対したためにこの時は実現しなかった。

結局1971年に第二回の国民投票が行われ、国民の65.7%、17邦が賛成し婦人参政権が認められた。

国民の意思が直接問われる国民投票だが、スイスの場合長らく女性はそこから排除されていたので、そこで投票によって決定に参加できるのは男性だけだった。つまり、男性の意識が変わらないことには、婦人参政権は認められず、そこに至るまでにずいぶん長い時間がかかったのだろう。

人の意識を変えるというのは凄く時間がかかり、場合によっては世代が入れ替わるのを待たないといけなかったりする。国民投票のような多数が政策決定に参加するやり方で制度を変えるとなると、場合によってはずいぶん時間がかかることもあるのだろうかと思った。

渡辺久丸『現代スイス憲法の研究』信山社、1999年

*1:黒澤隆文「近現代スイスの自治史と連邦制・直接民主制―ベルン市近代行政史とチューリヒ第二次合併の事例を中心に」踊共二・岩井隆夫編『スイス史研究の新地平 都市・農村・国家』昭和堂、2011年、242-244頁。